先日、長引く風邪の病み上がりで体調は最悪でしたが、北海道は上川の士別市に行ってきました。
風邪で店にでていなかった蕎麦屋親爺が、治ったとなったら店を空けるのか、とスタッフの目線が鋭く背中に突き刺さる。(^^)
小樽から電車を乗り継いで4時間半で、なんとか士別市に到着。
秋晴れで空気が澄明。
天塩川と剣淵川が合流する名寄盆地の南端、真っ平らな地形の向こうに緩やかな丘陵が連なり、空がどこまでも広い。
士別は屯田兵制度最後となる兵村としてスタートし、農業の集散地と交通の要衝として発展し、今はビート精糖やサフォーク羊の牧畜に力を入れている。
三年前、小樽市博物館で臨時職員として頑張り、昨年社会人採用で士別市博物館学芸員となったM氏から、士別で開催されるフォーラムのパネラーに来てくれと突然依頼が。
小樽繋がりの若者がかわいがられている町で、そういう若者から頼まれれば、いやと言えなくて。
お呼ばれしたのは、北海道自治体学会フォーラム。
「まちづくりの主人公は誰か?」とし、サブテーマは
「住民参加型まちづくりと行政参加型まちづくり」、
ウゥゥム、・・・・なにかしら自治体職員の問題意識先行の感がある。
おもわず、コーディネーターの先生に「行政参加型まちづくり」って最近言うのですか、と聞くと、先生も首を捻って。(^^)
まちづくりにとって自治体職員は黒子役でいい、
光らせスポットライトをあびるのは市民でなければ続かない、
と言おうとしたら、パネラーのおひとりが先に語ってくれ、敢えて口にはせず。
北海道の町で自治体学会に参加する若くやる気まんまんの積極的な自治体職員は、黒子役だけでは満足できないというところか。
基調講演は全国に名をはせる九州鹿児島県・鹿屋市柳谷地区の「やねだん」の牽引者・豊重哲郎氏の情熱こもったお話。
まちづくり現場で永年汗を自らかかれてきた方の話は、本当にいい。
触発されて、言ってしまった。
確かにまちづくりは官民の連携抜きには考えられない、が「協働」とか「パートナーシップ型」などワークショップが大流行の昨今、パターン化し行政手続き化してきている。
まちづくりという言葉もかなり汚れてきた感があるが、「協働」とか「パートナーシップ型」などワークショップ展開も、もう汚れてきていて少々気味悪い。
だとしたら、「協働」とか「パートナーシップ型」とかいう前に、
・徹底的に腹の底から行政と市民とが論議しあう「関係づくり」
・対立する意見をとことん出し合える「関係づくり」
をどう築くのかこそ大事と想いたい。
生きてる町だから、対立する意見・姿勢も論理的なものだけではない。
一般的反行政感情も当然ある。
地区毎に培われてきた歴史的感情蓄積もある。
そもそも人間同士の好き嫌いだって当然ある。
それをさらけ出してでも語りあう「苦労という名のプロセス」があってこそ、初めて本当に行政と市民がわくわく感動しあえる「場」と「関係」が、成立するのではないか?
当然そこでぶつかり立ち止まることもある。
いや、私のまちづくり三十有余年でもぶつかり立ち止まる方が多い。
が、生ぬるい中途半端なパートナーシップ型ワークショップで終わらせない「覚悟」が、どの町の行政・市民側の中心メンバーに問われている。
こう書くと蕎麦屋親爺は、対立や諍いを目的化しているように捉まえる方がいる。
で、アブナイ蕎麦屋親爺と謂われてしまう(^^)
しかし、小樽のような十万ちょっとの人口の町も士別のような人口二万の町も、当然昼と夜がある。
夜の世界は一緒に居酒屋のカウンターで肘が触れあう距離で話し合える。
対立を面白がるマスコミ連中は、昼の表の対立しかみないでものを言うきらいがあるが、しかし、小さな町では昼の表の世界だけで生活しているわけではなく、夜の裏の世界があり、だからこそ対立が対立として「終われない」「終わらせられない」構造が、最初からある。
であるのであれば、覚悟の「継続性」を保持していくのかとまちづくりリーダーには問われる。
ある意味、まちづくりリーダーと対立する意見を表明してくれる人こそ、様々な壁を本質的に理解している。
その当初反対意見を表明した人こそが、持続的関係づくりのなかで何かのきっかけで逆転しそれまでの意見を修正し、もっとも強力な戦力になってくれる、そんな関係構築ができる。
それがまちづくりの「アヤ」だ。
小樽の小樽運河保存運動の歴史でも、運河埋め立て道路推進側の経済界の重鎮がアメリカ西海岸の諸都市のウォーターフロント開発をその目で直に見て道路埋め立て見直し表明をし、小樽運河保存運動と共同歩調をとるという大逆転劇が現実にあり、そこまで行くのに十年の市民運動が要された。
「やねだん」の豊重氏の活動でも、論理ではなく情緒で反対されていた地区の名士が、豊重さんが仕掛けた「両親への感謝のメッセージ」のラジオ番組で涙し、運動参加・合流のきっかけとなって強力な推進の力になったことが報告された。
そうなるまで、豊重氏は諦めず自分が地べたの活動を覚悟をもって汗をかきやり続けてきたからこそ、その「合流」が可能となった。
ではその「関係づくり」の手法は・・、士別の町の若い自治体職員こそがその失敗と成功の実践を通じて蓄積していかにゃならん。
オーソライズされるノウハウなどないし、だからこそ日本に北海道にピカリと燻し銀に輝く個性ある町が生まれ続けてきた。
「やねだん」の豊重哲郎氏は、それを現実にやりきったのではないか?
と、言ったつもりだが、相変わらず要領を得ない語りをしてしまった。
教室型に講師やパネラーが高い席に座り、参加者はそのご意見を拝聴するというシンポジウムやフォーラムの会場づくりは、どうもあずましくない。
パネラーと参加者が同じ高さで、コーディネーターと講師とパネラーが丸くなって中心にい座り、その回りを地元の参加者が囲み、コーディネーターが参加者からの質問や意見が出やすい「車座」の会場づくりが、町のシンポジウムやフォーラムに合う。
ましてや、立場や肩書きを抜きに語りあわねばならないのだから・・・
翌朝、わざわざ見送りに来てくれたM氏がお気に入りの士別のポイントを案内してくれるという。
士別の朝は、もうもうと沸き立つように流れる、家屋も丘も雑木林もすっぽり覆い尽くす朝霧の世界。
町をすっぽり覆い尽くした朝霧のなか、市民が星空を見にいく丘に向かうのだそうな。
刈ったあとの牧草地か、サフォーク羊の放牧地か、霞む濃い朝霧の幻想的な世界を進む。
波打つ丘陵地の沢からもうもうと朝霧が沸き立つ。
朝霧に煙る利休鼠の空と朝霧越しに輝くおおきな太陽とそして地平線・・、しかない。
まあるい地平線のような丘の頂きが現れてはまた現れて、ひたすら登る。
・・・何か不思議な気分。
奥底にこの七ヶ月居座るFUKUSHIMAのシコリとそれを抱える病み上がりの気だるい身体が、早朝の冷気でびりびり引き締まり 、周囲の利休鼠の空に澄明さが湛えられてはらわたの隅々まで染み入ってくる。
脂肪のよどみや蛋白の濁りと居座るシコリが、登るごとに全身から雲散霧消していく気がしてくる。
時間がたちまち過ぎていく。
後ろ髪を引かれながら駅に向かおうとすると、昇る太陽の熱に朝霧が負けはじめ広大な丘陵が恥ずかしそうに姿を現す。
晴れた景色も当然素晴らしいのだろう。
見たかったらまた来いや、といっている。
士別の自然も、そして町でうごめく自治体職員の若者達の動きも、朝霧のスクリーンにスライドのように映し出されるような気がして、そんな世界を楽しませてもらった士別行でした。