↑ 雪あかりの路を、その創成期から見守ってきてくらた多くの友人たちがいる。
その一人、Morihana氏の
暮らしという旅ブログから拝借した2010雪あかりの路の小樽運河会場写真。
薄暮の蒼が素晴らしい。
薄暮の蒼い空が、雪を蒼く染め、その蒼は小樽運河の水面にまで染みいり、蒼の世界に浮玉キャンドルの蜜柑色が、行ってみたい小樽、と誘う。
さて、2/16にアップした、
では、雪あかりの路の決定的な環、会場づくり、とりわけ旧国鉄手宮線会場と小樽運河会場づくりに関する私見を述べた。
早速コメント頂き、又、メールでもご意見を頂いている。
そもそも、拙ブログへコメントなど滅多にないので(^^)、感謝、多謝、深謝だ。
それだけ、雪あかりの路は皆さんに注目されているテーマだ、とこれまた嬉しくなる。
私の私見に関係なく、実行委のメンバーは喜んでいい。
コメントには・・・
「私の住むエリアでは、各個人宅前のスノーキャンドルは皆無でした。数年前はそれぞ
れの家の前にもあったんですが・・・
町全体でのイベントではなく、一部が大いに盛り上がるイベントになってきているよ うに感じるのは僕だけでしょうか?
個人的な思いは、それぞれの家で、スノーキャンドルが飾られている光景を見てみた
いです。町中の通りにできる雪あかりの路を。」
という、極めて本質的な、雪あかりの路が忘れてはならない基本を突きつけてくれたコメントを頂いた。 又、
「実は、私も灯りの数が少なくなったように感じました。
全体に地味になったような印象。それはキャンドル位置の高低差の変化がなくなって
フラットになったせいか、もしくは、大手協賛企業の広告色が薄まったせいなのか…
あれから、ずーっと考えていました。未だ、その答は明確にこれというものがみつか
りません。
ただ、あのようにひそやかな景色は本来の意図に近づいたような気もします。
原色多用の人工的な色づけが排除され、雪と夕闇の蒼、灯りの蜜柑色によって創りだ
される風景はほかにはない、ならではのものと思います。
それを大切にしながら、その灯りの世界が街中に染み出すような、規模拡大がなされ
ることを願ってやみません。
スタート時に比べると会場以外の場所でキャンドルが灯されている数が減っているよ
うに感じましたので…。
また、道内各地の雪まつり的な雪の工作物が増えすぎたような気もします。
ファミリーには喜ばれるのでしょうけれど。その分、逍遥感が希薄になりました。」
というコメントも。 更に、
「ここ何年か続けて小樽雪あかりの路に通っています。
他の多くの雪のイベントに比べて、雪あかりの路には心を揺り動かされる不思議な何
かがあるからです。
ただ、残念なことに去年から、特に今年は、それがあまり感じられませんでした。 来慣れてしまったのかとも思うのですが、間違いなく俗化して来たような印象です。
例えば、手宮線の屋台のうるさい客引きや食べ物のニオイや騒々しい滑り台や、灯り
のデザインや、とりわけ運河プラザの中庭の雪と氷の造形のセンスの悪さなどは、絶
対に私の好きだった小樽雪あかりの路ではありません。
ただ、救いは朝里川会場にあります。
ここを歩いていると確かに心が切なく動かされます。
この美しい静けさと物語の予感こそ小樽雪あかりの路の原点のような気がします。
主催者のご苦労はとても分かるのですが、最近この原点をちょっと見失っているの
じゃないかと、大変心配しています。
伊藤整詩集「雪明かりの路」の冒頭にこう書かれています。
「雪明かりをよく知り、永久に其処を辿るあの人々に、私は之等の詩集を捧げる」
小樽雪あかりの路は、そこを歩く人々みんなを詩人にしてしまうイベント、そういう
人々にだけに愛されるイベントであって欲しい。。。
来年に期待したいと思います。」
という、詩的な方からも。
こんなご意見を頂く、皆さん、小樽・雪あかりの路の質的成熟を願ってくれている。
その一方で、
「蕎麦屋親爺が言う雪あかりの路で次第に進行中の無意識な「札幌・雪祭り化」を、
懸命に運営される実行委員会メンバーは、認める視点に立てるのか?
それは、「来場されたお客様を喜ばす」という、一種の「進歩主義」を否定する作
業に似て、なかなか理解をえられないのではないか?」
という、心配を頂く意見をメールで頂いた。