これまでこの北海道後志(しりべし)エリアで、広域観光に携わる者にとって一つのタブーがあった。
それは、後志(しりべし)エリアでまちづくりや地域づくりで「泊原発」に係わる話は避けたほうがいいというものであった。
とりわけ防災対策重点実施地域(EPZ)の4町村では、農業・漁業・商業・観光などの事業者であっても親類縁者に泊原発関連で勤務している人々が多く、反・脱原発的言辞を放つ人は避けられてしまう、と。
平準化の論理とカラーリングが未だに生きているこの国では、それに慎重にならざるをえなかった。
正直、私もその四町村に原発を押しつけ、電気を享受してきた負い目もあった。
が、東日本大震災とFUKUSHIMAの未曾有の原子力放射能汚染災害が起こっては、もう原子力発電所問題は、イデオロギー論争を越え、防災対策重点実施地域(EPZ)である立地自治体の範囲を越え、日本全国に、そして近隣諸国は勿論各国に影響を与える、
「
数十年から100年スパンの直接生死に係わる問題」
となった。
これまで「原発立地自治体」とは、原発が「所在」する自治体を指してきた。
そして国の原発事故時における防災計画エリアは、原発所在地から半径10キロ圏の自治体が防災対策重点実施地域(EPZ)対象で、電力会社はその対象自治体とだけ「安全協定」を結んできた。
が、3.11「災後」の今となっては、もはや通じない。
国が定める原発所在地から半径10キロ圏の自治体が防災対策重点実施地域(EPZ)など、
「
施設外に放射線(放射能)が漏れないとする偽善=安全神話」
が、まかり通ってきた時代の産物でしかない。
政府の発表した、漫画的ともいえる同心円状避難図とは全く裏腹に、強度の核汚染が「斑状」に生じ、100億円もの税金を投入したSPDIIデータを公表しなかったため避難者に無用の被爆を強制し、汚染水を垂れ流し農業・漁業の核汚染災害は100キロを越える広範囲に拡大しつづけ、その範囲は予想がつかいない。
唯一の被爆国といってきたこの国が、自らの国土と世界を被爆させてしまった。
つまり、FUKUSHIMAという災後にあきらかになったことは、
「
最低でも半径30〜50キロ圏内にある自治体が原発立地自治体」
になったということだ。
もはや最低半径30〜50キロ圏の自治体は原発「
周辺」自治体ではなくなった。
これまでの原発立地自治体と同様、半径30〜50キロ圏の自治体は
「
原発事故と核汚染災害への覚悟」
を要求されることになった。
道内で第二位の観光入り込み客数を誇り、地産地消や地域活性化そして農漁業ブランド生産や観光を誇ってきたわが後志エリアには、
北海道電力・泊原子力発電所があり、半径40キロ圏内にこの後志の二〇市町村のほぼ大半が圏内になる。
20キロ圏の自治体住民が、原発事故と核汚染災害時には、30〜40キロ圏の自治体に当然避難してくる。
そして、60キロ圏には道内の人口の三分の一、180万人が生活し経済活動をする札幌市もはいる。
泊原発が「TOMARI」となって一瞬の原発事故と核汚染災害に襲われると、その一瞬が上記エリアで100年スパンの長期的で深刻な打撃を受けることを、直視しなければならなくなったのである。
そして、泊原発から80キロ圏の札幌市が原発凍結宣言をしプルサーマルにも反対し、余市町議会も同様宣言した。
半径30キロ圏の9町村が原発立地自治体同様の防災エリアとしての「情報提供」=安全協定締結を求めて始めた。
既存原発の安全性に関する全面的再検証が不可欠となったのだから。
今回のFUKUSHIMAによって、もはや「安全神話」を前提にした北電と原発立地自治体の「周辺他町村
無視」は通らなくなった。
しかし、逆に原発立地自治体自身の動きは、極めて微温的と言わざるを得ない。
全国原発所在市町村協議会は、3.11で
「安全安心確保に万全を期すよう強く要望」
したに過ぎない。
立地自治体がいくら要請したとしても、電力会社や国からは、
「一生懸命対処」
「基準見直し強化」
「万全対策強化」
「訓練徹底」
「福島原発と違うタイプ」
と、精神論と「
自己演出」しか返ってこない。
立地自治体は、それ以上の実効的安全確保の手段を行使していない。
各立地自治体の長も住民に対して「安全のために行動した」という
演出をしているだけである。
当然、このような「演出」では、住民や周辺市町村住民への自治体責任を果たしているとはいえない。
現に、政府・経産省は、「定期点検中の原発再稼働」を原発立地自治体に要請をし始めた。
2.
「
安全な原発との共存」という「神話」も、もう成立しない。
そもそも、立地自治体は国と電力会社から完全に「足元」を見られている。
原発が存在してる以上、立地自治体は安全か否かに無関係に
「
共存」
せざるを得ない。
立地の前段階であれば、候補になった立地自治体は死力を尽くして「危険な原発」の立地に抵抗する余地があり、物取り要求もだせる。
が、ひとたび立地を許してしまえば、否が応でも
「共存」という名の「
一蓮托生」
を強制されざるを得ない。
原発反対運動や廃炉要求運動を展開しても、その成就する見込みが低い段階では原発は存在し続けるのだから。
結局、完全か否かではなく、嘘でも「安全神話」にすがるよりないのが、今までだった。
この立地自治体からの国や電力会社への「安全確保」への陳情は、たいして相手にされない。
「安全神話」への希望的「信仰」は、今回のFUKUSHIMAが起きるまでは維持できた。
が、災後の今依然として
「相手にされない安全確保陳情」
は「
演出」でしかなく、
立地自治体の長として住民生活に対する無責任さを示すショーになりはてた。
立地自治体は根本的意識改革が問われる。
3.
「絶対安全」はない。
その上でなおかつ安全向上のためには、「推進と規制の分離」を強く立地自治体は、あらゆる手段を駆使し、国と電力会社に働きかけていかねばならない。
安全向上には、原発推進組織とは切れ離された「
安全規制組織」が絶対的に必要である。
安全神話を否定した上で、安全向上を目指さねばならない立地自治体にとって、原発の非推進組織による規制が不可欠なのはいうまでもない。
電力会社内部に安全部門を分離する必要があるが、それは限界がある。
原子力安全規制を国が担うとしても、推進組織と既成組織が一体であれば無理である。
原発推進の経済産業省に原子力安全・保安院を置く愚かさは、FUKUSHIMAで露呈した。
が、経済産業省から安全規制の行政機関を分離しても問題は解決しない。
政府全体として原発推進を掲げる限り、国による安全規制には限界がる。
安全神話を否定した上で安全向上を国・電力会社に真摯にさせるには、原発非推進組織や運動体による厳しい監視と追求、そして立地自治体がこれと「連携」をとることが不可分である。
原発がいかに「危険」であるかを明白化し、様々な「想定」をする。
ありうる全想定に対して国・電力会社が安全対策を採ったときに、初めて「想定外」は極小化される。
立地自治体にとって、「危険の想定」なくして安全対策は構築できない。
4.
安全向上にむけて立地自治体がなすべきことは、
第一に、立地自治体自らが原発推進方針を
放棄することである。
原発推進側がいかに安全向上を要望、表明、模索しても推進方策が既定路線である以上、安全対策は表面上のものになる。
安全確保の懸命な推進状況によって、立地自治体が推進方向にも反対方向にも変わり得る中立性を維持するときにのみ、国や電力会社は最大限の努力を払う。
立地自治体が原発推進を掲げることは、自ら「
安全向上を放棄」したことと同義である。
立地自治体が中立的立場をとっても、原発はある。
「絶対安全はない、危険」である原発を域内に抱えるから、精神的にも不安である。
しかし、「安全神話」が完全に崩壊した以上、そして原発が現に存在している以上、
「安全にたいして疑念を持ち続ける覚悟」が要求される。
嫌な現実を直視しないことは、FUKUSHIMAどころか、TOMATRIを誘発するだけなのだ。
第二に、国や電力会社が真摯に安全確保対応をするのは、脱原発推進組織や運動体の厳しい追及にあったときだけである。
従って、原発立地自治体は脱原発組織や運動体、そして専門家に組織的支援を行うことが合理的である。
立地自治体は共同で脱原発の専門家も参加する原子力研究機関や大学を設置し、研究機関や大学に資金提供するべきで、又、脱原発の市民活動への支援をおこなうべきである。
こうして初めて、推進派と慎重派・脱原発派の専門的論争や市民間論議が保証され、結果として安全向上に繋がる。
そもそも原発推進派は膨大な資源を有している。
電力会社は財界でも要職を占め、政治家・政党に献金し、マスメディアには膨大な広告収入を与え、気に入らない記事は圧力をかけボツにさせ、官僚には天下りを提供し、専門家にはポストと資金を提供してきた。
膨大な利権構造を目の前にしては、安全向上のための様々な想定を指摘する専門家を養成すことは決して容易でなかった。
その上に立地自治体はこの利権構造に組み込まれてきた。
しかし、国・省庁・電力会社・政治家・マスメディア・御用学者らのステークホルダーと立地自治体とでは、放射能汚染のさいの「被災の差」は、膨大な違いが横たわる。
国・省庁・電力会社・政治家・マスメディア・御用学者は多くは東京圏など遠方におり、いざとなれば撤退できる。
この違いを無視して、
立地自治体が同じ利権構造に取り込まれてきたこと自身、今となっては最大の愚行であったことを被災地は示している。
5.
原発重大事故への立地自治体の対策について
5_1.長期避難計画
立地自治体として原発の安全向上のために具体的努力をしたとしても、重大事故勃発を「想 定」するのが、立地自治体の責任ある市政・町政・村政である。
それがFUKUSHIMAでは否定的に現出した。
起こりうる様々な可能性を「想定」しての努力が、結果的に安全性向上につながる。
「事故を起こさない」努力と、「事故が起こりうる」ことへの対処の「多重防護」こそが、立地自治体の責務である。
FUKUSHIMAで計画的避難区域の設定状況から半径五〇キロメートル圏では全住民の長期避難がありえることが、実証されてしまった。
というか、たまたまこの範囲で済んでいる、済ませているといったほうがいい。
少なくとも、既存原発から半径50キロ圏内の立地自治体は、全住民の長期避難の具体的計画とその実行手段を構築しなければならない。
具体的には、
・当面の屋内退避のための(核)シェルター施設
・バスなどの避難移動手段
・避難移動先居住空間
・衣食住や医療・看護・介護等サービス
・放射線防護・除染の器具設備(泊原発の立地自治体ではヨウ素備蓄さえないことが明らかになった。)
・被爆差別や風評被害対策
・それらの訓練
である。
これまでの原子力防災訓練は、訓練ではなく「
セレモニー」にすぎない。
現実には地震・余震・道路損壊・停電・水道管損傷・ガス管損傷・電話等通信回線不通などインフラの完全破壊の中で避難であるが故に、困難は何倍も大きい。
長期避難に及べば、子供の教育、高齢者医療問題も発生するし、生業から切り離され住民の当面の生活費困窮が発生し、将来的な新たな就業対策も必要となり、放っておけば全住民が生活保護でしか救済しえない状況も現出する。
これが明らかなのは、立地自治体はこうした覚悟を持った対策をしてこないで、「安全神話」を国・電力会社と一緒に喧伝してきた。
電源三法交付金のその大半を湯水のごとくハコモノ行政に投下してきながら、ヨウ素剤備蓄さえもしていないことが露呈した。
しかし、安全神話が崩壊し、3.11FUMUSHIMA の災後の今日においてもなお依然として対策を採らなければ、立地自治体として
重大な怠慢である。
5_2.
立地自治体は上記の対策には、終わりの見えない膨大な資金を要する。
まず、立地自治体は電源三法交付金をメインに自らの基金を立ち上げ積み立てるべきである。
その上で、国や電力会社に要求しなければならない。
国や電力会社は原発を稼働したければ、これまでに加えて更に適正な費用を供出・負担しなければならない。
3.11で露呈したことは、電力会社は原子力災害の補償のための十分な資金を積み立てておらず、国=国民の税金負担を事後的に転用しようという露骨な「責任転嫁」を柱にしているということである。
基本的には保険原理に基づいて、原子力災害補償のための保険料積み立てを電力会社にさせる。
それは膨大な保険料を保険会社は請求するであろうから、当然電気料金に跳ね返る。
となれば、電事連が言う「最も安価な電気料」キャンペーンは破綻する。
要は、今までの電気料金は原子力災害が発生したときの負担を国民の税金に後付転嫁することを「想定」してのダンピングをしていた、だけなのである。
6.
地域づくり、まちづくりとの関係
原発立地自治体にとって深刻なのは、原子力災害の可能性は、地域づくりとその主体にとって「諦観」と「アパシー」を与えかねない、いや与えていることである。
原発が立地している地域が地域づくりをしようとすれば、豊かな自然や人情味溢れるコミュニティとの触れあいなどを地域資源として位置づけそれを光らせようとする。
しかし、ひとたび原発重大事故が起きれば、それらの営々と続けてきた努力は水泡に帰す。
であるなら、そのようはハイリスク地域での地道な地域づくりの努力をするのは虚しいもの、と受け止められる。
そして原子力災害は、逃げてもすぐ帰れない・・・・。
つまり、原発立地自治体としては、原発は「共存共栄」ではまったくなくて
「
一蓮托生」
を覚悟するしかない。
だからこそ、否が応でも原子力災害を起こさせないよう安全向上を鋭く迫るべきであるが、それでも「絶対安全」はもうないのである
原発が地域づくりに賭ける地域の人々の真面目な営みを破壊し、地域社会と自然と風土を崩壊させるならば、それは原発推進派の思う壺なのかもしれない。
将来展望を失った自治体や地域社会には、地域づくりや企業誘致という選択肢はなくなる。
そうなれば、更に原発増設や各種の原子力施設や放射能廃棄物処理場などの設置を陳情させうることも、原発推進派は当然計算にいれている。
だからこそ、否が応でも原子力災害を起こさせないよう安全向上を鋭く迫るべきは、まちづくりや地域づくりの主体にも強く要請されている。
年間2000万人の後志(しりべし)来訪者を迎える観光業界・観光関連団体組織もその陣営に参加してこそ、その責任を果たせる。
どちらかというと、観光まちづくり市民運動の主体はハコモノ行政一般へ鋭く批判をしてきた。
しかし、
・当面の屋内退避のための(核)シェルター施設
・バスなどの避難移動手段
・避難移動先居住空間
・放射線防護・除染の器具設備
に加え、
・冬期間の積雪で通行止めになるような原発周辺の道路事情の早期解消
も、
安全安心な避難ルートとしての道路づくりは住民だけなく観光で訪れて頂く観光客への安全安心な避難ルートして、「観光まちづくり」の主体にももっとも問われている。
過度に諦観に陥るまい。
地域や自治体の営々と続く営みが一瞬で破壊されるのは、他の自然災害、感染症、経済恐慌、戦争などでも同様だ。
とはいえ、一度FUKUSHIMAのように原子力災害・放射能汚染災害を被れば、50年〜100年スパンの長期間の避難の中でまちづくり主体の想いも無残に否定される。
7.
原子力発電は「裸の王様」だった。
本当は裸であるのにもかかわらず、「多重防護」という薄く軽い衣装を何枚も着込み、「安全」であると「大人」は「安全神話」を流布させてきた。
「裸」だと指摘した「子供じみた研究者」は冷や飯を食わされ、同じく「裸」だと指摘した「子供じみた市民」は「非現実的夢想家」と色分けされた。
しかし、国も電力会社も「専門家」も原発が「裸」であることを本音では知っていた。
だから、東京や大阪ではなく、福島や新潟や若狭という遠方に立地させてきたのだから。
したがって、その過疎地域に立地させたFUKUSHIMAは、彼らの「想定内」だったといえるわけだ。
実は、原発立地自治体は立地に協力してきたにもかかわらず、原発関係者達(原子力ムラ)からは忌み嫌われてきた。
専門知識もなく、過剰に危険を感じる、愚かで感情的な人々と。
何かあるとすぐカネを要求する、と。
権限もなく様々な原発情報提供を要求し、煩わしい、と。
他方、国の「原子力災害対策特別措置法」で規定される10キロ圏以外の周辺自治体関係者からは、「電源三法交付金」を受ける「富裕で羨ましい」という「嫉妬」を浴び続けてきた。
国や電力会社は、そういう原発所在地域の所在自治体と非所在自治体を分断することでこそ、原子力施策を押し進めてきた。
原発所在自治体は、このような「板挟み状態」のなかで、原子力災害に被災した。
原発関係者達(原子力ムラ)は、原発は「安全」だから、「正しい」情報を示せば所在自治体は「安全」と理解するべき、とする態度を取り続けた。
原発関係者達(原子力ムラ)は、「安全向上」のために所在自治体や住民の素朴な懸念に答えて、コミュニケーションを強め学習してもらいながら安全対策を向上させようとはせず、すでに充分な「安全」な「科学的事実」を与えている、と傲慢に振る舞った。
結果、原発関係者達(原子力ムラ)外からの懸念を、現実的に「想定」しようとせず、FUKUSHIMAにつながってしまった。
このような国・省庁・電力会社・「専門家」の傲慢な「安全文化」を育んできた要因は、当事者に加え経済界・大学・マスメディアも参加した大利権構造であり、大都市の電力消費者のあり方などにあることは間違いない。
が、同時にその一端は、原発所在自治体が「推進」と「共存」に偏った方策をとってきたこと、更に周辺自治体関係者が蚊帳の外であることで無関心を装ってきたこと、にもある。
逆に、立地自治体には、 原発関係者達(原子力ムラ)の「安全文化」を変える必要性もあるし、その能力も責任もある、ということである。
以下、参考記事をアップしておく。↓