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小樽運河・ポートフェスティバル・夢街、そして「水とり山」
JUGEMテーマ:観光まちづくり
夢街印半天2

 ↑ これから述べる、小樽運河保存運動の担い手の「小樽・夢のまちづくり実行委員会」のスタッフ用印袢纏。
 不祥蕎麦屋親爺がデザインした。
 夢という字に「まちづくり」の思いをかけ、腰柄は真っ白な波をモチーフにした。
 小樽の街に新しいウェーブを作るんだ、という、アラウンド還暦の年齢になると少々赤面せざるを得ないが、しかし型染めではあっても元気漲っているとは思っている。
 火消し袢纏からデザインを頂いたが、弊店火災で喪失し、デザインした自分が所有していないという体たらく・・・


 三〇年前の小樽運河保存運動の仲間が、今年になって二回ほど小樽で集っている。

夢街・会長&副会長 30年前の運河の若者たちの中で一番の年嵩だった山口たもつ(現・小樽市議)は、既に2年前還暦を迎え、以後当時の年嵩たちが、続々阿羅還(アラウンド還暦)に突入している。

  ←ポートフェスティバル in おたる、第二回(1979-s54)の頃の小樽夢の街づくり実行委員会・佐々木会長と副会長。
 小樽夢の街づくり実行委員会会長・佐々木興次郎は本年還暦を迎え、副会長は、本年還暦を終えた。

 学生時代、生き疲れし、くたびれ果てた六〇代の人達を見るにつけ、
 「何でその歳まで生きているのか」
と、暴言を吐いた私がその歳になってしまったわけだ。 (^^)

 その懐かしい仲間の集まりで、当時の小樽運河保存運動を担った若者たちが何を思いながら小樽のまちづくり市民運動に係わっていったのか、を出版したらという話になった。
 で、どうやら私は、「夢街」を書く担当になってしまった。

 ということで、試しに書くことにする。
 試し書きは、当然日々変わっていく。

 小樽運河保存運動から三〇年後の、今、2009年。
 小樽の祝津地区にある漁場建築群のなかで、外観はもっとも損傷が激しいが、しかし内部構造は堅牢なニシン番屋建築を、国交省助成事業でもって修復・再活用し、地盤沈下の激しい同地区のまちづくり拠点にしようと、趨り回っている。
 その事業主体は、小樽商工会議所・小樽市・観光協会・建設業協会・祝津たなげ会・しりべしツーリズムサポートなどで構成されている。
 文字通り、オール小樽だ。

 行政と経済界が一体となった運河埋立道路建設と名もない市民や若者たちが真っ向から11年間対立した三〇年前の小樽運河保存運動、それをを知っているものにとって、今「行政と経済界と市民運動の三位一体のまちづくり」など、つくづく刻の流れを感じる。

 その、にしん番屋修復の件で相談でとある会社の部長に説明をしているとき、横から、
 「あんな老朽化激しい番屋などを修復するくらいなら、小樽にはもっと修復しなければならない歴史的建造物があるっしょや
と、現場で汗をかかない、自分の好みの仕事だけしかしないのでは有名な方が、したり顔で言い放たれてくれた。
 こういう、浅知恵で横から口を出すのを「蕎麦屋の湯桶」と蕎麦屋はいう。
 蕎麦屋職人が一番気嫌う人種だ。
 取っ手と注ぎ口は直角につき、横から口が出ていることから、「横から口を出す」ことの隠語だ。

 こういうときだけは、還暦で弾性疲労しズタズタに切れたシナプスが一発ですぐつながり、
 「言ってくれるじゃないの!」
というパルスが猛烈な勢いでシナプスを駆け巡る。
 突然、ひとつの言葉が口から出た。
 「あのねぇ、誰に向かって小樽の歴史的建造物の保存や修復で説教たれようってわけ?
  ニシン番屋は祝津の『水とり山』なんだ!
  この俺に歴史的建造物で説教しようってんだから、知っているようねぇ、水とり山って」
と、応えてあげる私がいた。

 相手は、「水とり山」などという滅多に聞かない言葉に面くらい、かといって蕎麦屋親爺風情如きにそれは何かと聞くのもプライドが許さず、以降は沈黙してくれた。


ポートフェスティバル・スタッフ
 ↑ 第四回ポートフェスティバル実行委の面々、二日間のイベントを終え全会場の清掃を終えて、朝方疲労困憊で記念撮影

 ・・・そう、それは三一年前の、1978年(S53)秋のことだった。
 小樽の、とある蕎麦屋の石蔵の二階座敷に、二〇代の若者達が集り、深夜まで延々会議をしていた。
 集まっていたのは、小樽夢の街づくり実行委員会の面々
 
その夏初めて開催した、小樽運河周辺を会場にしたまちづくりイベントである、「ポートフェスティバル in おたる」を開催し、八万人もの来場者を得る成功をおさめた若者たちだった。
 のちに「夢街の奴ら」と市内で呼ばれるようになる、若者達だった。
 延々と話されていた議題は、自らが開催会場とした小樽運河を巡る保存運動に、ポートフェスティバルがどう係わるのか、だった。
 ポートフェスティバルは、30年経った今振り返れば11年の小樽運河保存運動史の中で決定的なターニングポイントになったまちづくりイベントだった。
 が、誕生間もない時期、まだ様々な思いの若者達で構成されていて、小樽運河保存運動に明確な態度と姿勢も持ってはいなかった。
 論争が空回りし、テンでに話を始めた頃合いを見て、若者達のシンクタンク的存在だった北大足達研究室の院生の一人が、訥々と語り出した。

 こういう話だった・・・・、

mizutoriyama01

  伊豆大島の一番大きな町・元町が大火災(1965年)にあい壊滅的状態となり、政府は災害救助法を適用した。
  政府が災害直後の応急的な生活の支援策を提示しようとしたとき、
  島民が「いの一番」に望んだのは、そんな一方的支援策なんかじゃなかった。
  島民が皆で集まって話し合って出したのは、
  まず
  「自らの力で三原山の砂漠地帯に『水取り山』(=溜め池)を建設する
 と、いうことだった。
  慢性的な水不足解消もあったが、住民が自力で建設する町民全体の「水とり山」を作ること、それこそが、町民ががどんな復興策よりもまず望んだことだった。
  できあがる「水とり山」をまず町民自身がイメージし、それに向かって、皆で纏まることで自力で建設するって。
  自らの力で水とり山をつくる
  それは、自らの地域を,自らの手でつくり上げてゆく哲学であっただろうし、
  そもそも水とり山という場がもつ根源的な力を再発見することであっただろうし、
  他人の手による復興策ではなく、島民の手になるまちづくり、だったのだ。
  そこにあるのは、
  機械力より多くの雑多な人々の力であり,
  知識よりは知恵をつかい、
  速さよりは持続力であり、
  理性よりは情熱や思いだった。
  つまり、島民が「水とり山」という姿形に求めたものは、実は島民が纏まるためのシンボル性だったのじゃないか。
  政府や災害の専門家達は、伊豆大島の島民がそんな溜め池づくりを求めるなんて想像もしてなかった。
  一方、政府が支援してくれるというメニューにたかるんじゃなく、皆が今こそまとまることを優先した島民の凄さがそこにある。
  では、小樽の人にとっての水とり山ってなんなんだろうか。
  小樽運河こそが小樽市民の「水とり山」、・・ではないか。
  それをポートフェスティバル自らが、明らかにしたんじゃ・・ないのか。
  機能面で時代遅れの港湾設備から近代的道路になるより、
  これからの小樽のまちづくりをしていく僕らの依って立つ根っこが、小樽の「水とり山」・小樽運河なんじゃないのか。

 ・・・と。
 なにせ、三〇年前に聞いた話。
 腐臭を放ち浮腫が生じアルコールの海を漂流する記憶は、引き出しの奥底に埃にまみれ褶曲山脈のように曲折し堆積してしまい、時たま耳にする言葉が記憶に地震を起こし、脈絡なく回路が繋がってしまう。
 が、とにかく、「水とり山」とはそんな話だった。

 その場にいたポートフェスティバルの若者は皆、その「水とり山」の話に圧倒された。
 その言葉に、夢街は組織された。
 私も魅了された。


 ・・・私が帰省した頃、創設当初は二〇〇〇人近い会員数を誇った小樽運河を守る会も月例会に十数人しか集まらない少数派運動に転落していた。
 そしてその小樽運河保存運動の運動量では、「守る=保存=凍結的保存」の運動にしか聞こえてこず、運動路線も「かけがえのない先人達の遺産を守ろう」という趣味的文化的情緒主義的運動的にしか、見えなかった。
 小樽運河を守る会に共鳴する小樽市民にはそうしか見えなかった。

 というか、ウォーターフロント開発という言葉自身も事例もまだ日本にはなく、歴史的建造物保存は神社仏閣文化財保存としかイメージされてない時代だった。
 1975年(S50)の文化財保護法が改正された。
 それまでは建物単体でしか保存出来なかった歴史的建造物を、面的な広がりのある空間として保存するために改正されてはいたが、
伝統的建造物群保存地区という概念は北の一地方都市にまで到達していなかった。
 世は大平内閣の「地方の時代」ムードではなったが、北の一地方都市にまで伝播はしていなかった。

 犬山市の明治村のように歴史的建造物を移築修復保存し、その歴史性を学び、かつ移築工事で歴史的建造物修復技術を蓄積していくような、博物館的保存の重要性は理解できた。
 が、町の賑わいづくりや元気回復にストレートに繋がらない、いわゆる単体保存や凍結的保存では、小樽が抱えていた「斜陽のどん底」からの脱却への回答には、なり得るはずもなかった。
 にもかかわらず、小樽運河を守る会で出会う画家や写真家などは、
 寂れた小樽運河がいい、
 あのヘドロがたまった小樽運河水面の色合いこそ絵になる、
迄は良かったが、
 荒廃し廃れていく姿こそが小樽の原風景で、小樽人はその廃れていく姿を見守るだけだ、
などという、趣味的情緒的保存の社会性のなさに呆れ果てていた。
 私はひそかにそのように語る仲間達を、愛情を込めて「ブルース派」と呼んでいた。
 
 が、そのような保存派の中にある1傾向に組みする気など、一ミリもなかった。

セーヌ川
 私と言えば、「兼高かおるの世界の旅」で垣間見たフランス・セーヌ川にある、護岸が階段上に水辺まで続き子供が膝までの水辺で遊ぶような、そんな親水性の高い水辺空間を夢見たが、それには魚が住む水質が問われたし、

水辺のレストラン

 アムステルダムの運河沿いのカフェやレストランにその姿をアナロジーし、埠頭の側のチョコレート工場跡が再開発されて若者が大挙押し寄せる文化発信の空間となっている米国・ジラデリーを小樽運河周辺にと夢見ていた。
 そんな私が、黙って小樽運河が廃れていくのを見守るのが小樽人だ、という化石のような志向のブルース派の人達と、心底一緒にスクラムなど組めるはずもなかった。

 まだ、北大院生の石塚雅明や柳田良造や森下満そして山口たもつとは出会ってはいなかった。 せいぜい同じ町内の佐々木興次郎と会話するくらいで、彼らの主張は私にもそして市民にも届いておらず、「勝利する何かを内包する運動」とはみえなかった。

 学生運動の残滓で、そんな小市民的市民運動に今さら入っていくものか、とも実は思い込んでいた。
 小樽運河保存運動は、最小限の獲得目標であって最大限獲得目標は別じゃないのか。 
 小樽運河保存運動をテコに「小樽の街の元気と賑わいをどう取り戻すのか」こそが最大限の獲得目標ではないか。
 その最大限獲得目標を持ち得ないない運動は、そもそも最小限目標すら勝ち取れないだろうが、とニヒった目でしかみていなかった。

 だから、道路促進派が小樽運河保存運動側を「アカ」とレッテルを貼るのを許してしまうような、強制されたとはいえ自ら少数派の道しか進まない小樽運河を守る会などに入会してどうなる、新しい若者の運動体こそを造った方がいい、と小樽運河を守る会に入ろうとしながら躊躇う佐々木を揺さぶっていた。

 私も若かった。
 そういいながら、自分ならと、勝つための事例を探し求めていた。
 が、凍結的保存に対置する新しい質の運動と言葉は自前では持てず、書店でその種の書籍を求めるが、当時はせいぜいあって「町並み保存」本がわずかにあっただけだった。
 
 だったらと、北海道読書新聞に敢えて挑発的に「歴史的環境保存(凍結的保存)からの訣別」などという駄文を書いていた。

 そんなある日、書店の法律関係書棚から「ジュリスト」を取った。
 「住民運動特集号」で住民運動訴訟の紹介をしており、そのなかに「まちづくり」という言葉を見つけ、目が釘付けとなり唸った。
 都市計画は、行政と専門家のよそものの言葉でしかなく、その言葉を聞けば聞くほど、日本に本当の都市計画などあったのか、と叫んだものだった。
 だからこそ、今では汚れちまった感がある「まちづくり」という言葉だが、三〇年前は、ページの文字の山の中で、神々しいほど新鮮に光輝いていた。
 まるで、動的で、主体的で、新しく創り築いていく、という感が盛り込まれた言葉と映った。

 夢街が出来、町中を走り回るようになり「まちづくり」という言葉が知れ渡っていく時期に選挙があり、とある政党が「まちづくり」という言葉を選挙カーで叫ぶようになった。
 本来ならその「まちづくり」という言葉が、市内に広がることを喜ぶべきだった。
 が、折角、政党等とは独立した市民運動という夢街への評価が、また特定政党が使用することでそれと一体視され「アカ」とレッテル貼られるという危惧から、その政党事務所に行き「『まちづくり』という言葉は、夢街が言っている言葉で、選挙目当てに使用するのは控えて欲しい」とねじ込み、驚いたことに彼らはそれを受け入れ、暫く使用しなかった。
 保守系市長候補の選対事務所にも同じように行き、同様の要請した。
 小樽の経済人が選対事務所に詰めていて、皆、にやにや笑ってくれた。
 「候補や選挙カーはまちづくりという言葉は使用していない、が、そもそも『まちづくり』というそれは、君たちが作った言葉なのか?」
と、鋭く問うてきた選対幹部がただ一人いた。
 「政党会派全部が使うなら大歓迎だが、特定政党だけが使うのは遠慮していただきたい」
と、若さだけで無理を通した。
 のちに、小樽商工会議所で運河埋め立て・道路建設路線から保存再生への大転換の立役者となった副会頭・小樽作業衣社長の大野友暢氏がその人だった。

 兎に角、そのくらい、まだ「まちづくり」という言葉は初めて聞く言葉であり、新鮮だった。 そしてそのくらい、政党色が付くことにナーバスだった。

 その「まちづくり」という言葉を冠した若者の団体をつくると聞き、そんな面白い奴らならと接近したくなっていた。
 
西山卯三氏石造倉庫倉庫セミナー
 その機会が、ポートフェスティバル第一回のプレで開催された「↑ 小樽石造倉庫セミナー」だった。
 札幌の設計事務所や建築会社に勤める若手建築家のグループ・ハビタが主催する、小樽で初めて石造倉庫を会場に使ったセミナーだった。

第一回石造倉庫セミナーポスター
 石造倉庫の壮大で緻密な小屋組み空間、実に小樽らしい空間の下でのセミナーだった。
 椅子席の一番後ろに積んであったムシロに座り、その小屋組み空間を見上げていた。
 申し訳ないが、西山卯三教授の「世直し観光」提起や講師陣の講演より、こんな石造倉庫の使い方を発想する若い連中が北海道にいたことの方が、嬉しかった。
 
 おかっぱ頭にツナギ姿で会場設営をし、同じような匂いを放ち目がぎらつくように輝いていた若者がいた、それが山口たもつだった。
 佐々木が「小樽運河を小樽(経済)復活のテコにしなきゃならんと小樽運河を守る会で一人叫んでいる人です」とコメントしてくれた。
 山口が三一歳、私は三〇歳になっていた。
 「アイツだな。」という嗅覚が働き、一度話さんとな、となり、夢街を結成する直前、山口・佐々木・私と初めて会うことになった。
 おそらくこれから何年も続く関係になるのだから、連れ合い同士も同じ関係になんなきゃ嘘だろうと、いきなり山口・佐々木・私と三夫婦六人が、私の2DKの狭いアパートに集まり、一瞬で意気投合し、深夜まで呑み語った。
 以来11年、連れ合いたちは店や家庭を放り投げ趨り回る亭主たちに対抗し「未亡人クラブ」を作り呑み語り合うようになり、私は”BLACK WIDOWの会”と一人命名した。


  ・・・私が小樽に帰省したのは、二七歳だった。
 東京生活での唯一の財産は、チッキで実家に送ったダンボール一〇数箱の書籍だけ。
 春四月、七年半前と全く変わっていない旧国鉄小樽駅のホームに降りた私は、それまでの自堕落な生活で栄養失調からくる胃潰瘍・十二指腸潰瘍で数度入院し、やせ細りかろうじて体重50キロはあったものの、目は吊り上がりぎらついていた。
 履き古したジーンズとスニーカーに、歴戦で活躍しすり切れかぎ裂きだらけのジージャン姿で、手ぶらだった。 
  旧国鉄小樽駅の改札を出て見上げたロビーの天井には、七年半前と同様まだ羅針盤があり、それを見上げながら外に出ると、まだ駅前再開発途中で歩道橋もなくまっすぐ一直線に小樽港と防波堤が見え、荒れて白波が防波堤の上を走り抜ける、小樽人が言うところの「ウサギが走る」雲行きだった。
 天気の雲行きだけでなく、心も荒れてササクレだっていた。
 天パの肩まで伸ばした長髪が風になびいた。
 実家は、駅前にあった。 
 まっすぐ帰るのは、まるで《 敗残兵 》だなと自嘲し、駅から中央通りを下り、運河に足を伸ばす。

 かつてウグイを釣り、ときには泳いだ運河。
 その小樽運河は、ヘドロが堆積し水面まで顔を出し、そこにカモメが羽を休めていた。
 運河の水際の路肩という路肩は崩れに崩れて雑草が生え、ありとあらゆるゴミが至る所に捨てられ、それを誰もとがめ立てする風もなかった。
 海岸線に沿って海を埋め立てたので、運河に沿った道路は岸辺なりに湾曲し、歩を進めれば進めるほど眼前の景色は次々に変って行き、歩き疲れを感じさせないでくれた。
 東京の一直線のビル街のように、いつになったら目的地に着くのか、いつになったら家並みは途切れるのかという精神的疲労感などは、無縁の運河と石造倉庫群だった。

小樽運河の倉庫群
 その運河にそって、何の装飾もない、切妻の美しい勾配屋根の石造倉庫群が、緩いカーブの道なりに並び立っていた。
 かのウィリアム・モリスなら、まるで大地の地中からそのまま生え出た、と言うであろうように、それはまだそびえ立っていた。
 近代工業が生産する建築には絶対ない、
 ブルドーザーの力では造れない、
 コンクリートミキサー車の力でも造れない、
 クレーン車で鉄骨材を釣り上げても出来上がらない、
 機械力といったものに一切頼らない、
 機械ではなく全て人の手で築いたのだと胸を張り、
 それは大地から生え出て根付いたようにそびえ立っていた。
 その石造倉庫に、
 「帰ってきたか? これから小樽でどう生きるのだ」
と語りかけられ、いきなり、
 「帰ってきた小樽から、わが小樽か」
とひとりごちしていた。
 ・・以来ポートフェスティバル・夢街に参加するまでの三年、当時小樽で耳にする話は、自虐的で懐古趣味な小樽の話だけだった。


 が、その「水とり山」の話だけは、久方振りに聞く、めくるめく眩しさを秘めていた。

 ただ反対のための反対運動ではない、運河周辺の保全と再生から小樽のまちづくり展望を引き寄せる、自分たちの発想と力による運動、まちづくり市民運動だ、と。
 そう考えれば、若者たちが自力で開催したポートフェスティバルが、当時の小樽の街に与えた影響を捉えかえすことができた、のだ。

 小樽運河保存運動への若者達の関わりは、ここから始まった。
 そして私の小樽運河保存運動への関わりも、ここから始まったのだ。
 
 我が街・小樽

 ・・・三〇数年前の、帰省した小樽は斜陽のどん底で苦悩し、明日への展望を求めながら漂流していた。

 第二次大戦前までは、後に北のウォール街と呼ばれるくらいの繁栄を謳歌した小樽。
 戦後その小樽は、激変した。
 サハリン(樺太)はソ連領となり、サハリン交易・航路は喪失した。
 石炭から石油へのエネルギー大転換によって、石炭積み出し港の位置も喪失し、山々がそのまま海になだれ墜ちるような地形上バックヤードを持ちえない小樽は、その港湾設備機能の旧式化も相まって、港湾都市としてのポテンシャルを一挙に喪失していった。
 かろうじて、小樽経済界が誘致したフェリー航路がひとり気を吐いていた。
 

艀
 ↑ かつて何千人という沖仲仕の喧噪で賑わった運河と石造倉庫群は、寂れにさびれていた。
 積む荷物もなく何十艘という艀(はしけ)が、運河護岸に停泊していた。
 
  そして、隣町・札幌が小樽の没落と反比例するかのように北海道政治の中心だけでなく経済の中心へと成長していくと、戦後まだ18あった都市銀行は昭和50年代には移転撤退し2行しか残らず、北海道シェアの半分近くを握っていた繊維業界は数%のシェアに落ち込み、物流都市としてもその位置を失った。
 そんな小樽の町の衰退への焦燥感は、やがて小樽の町全てへの無感動として、小樽市民を蝕んでいった。

昭和五〇年代の小樽運河
 が、苦悩する経済界と行政は、過去の物流港湾都市の栄光を引きずったままだった。
 人というのははなかい。
 自分が経験したことから別の方向に飛躍するというのは困難で、としを重ねればかさねるほどそれは増すもので、当時の小樽の経済人は皆そうだった。。
 新たな都市像を自らに引き寄せようとしないその世代層は、それでもなんとか巨大なまでに発展する札幌とのネットワークづくりで、生き延びようとした。
 その世代層には、他都市が真似しようにも不可能な小樽の個性、歴史的環境という資源が目に映らなかった。
 彼らの目には、既に時代の役割を終えた、周辺環境を悪化させる邪魔者的存在、小樽のマイナス資産としてしか、映っていなかった。

 保守だけでなかった、革新も含め「文化でメシはくえるか」と嘯いていた。
 そして買収費用もかからない小樽の最大の資産=小樽運河を埋め 立てて、六車線道路をつくろうとした。
 それが、当時の小樽だった。
 漱石・三四郎の広田先生の「滅びるね」という答えそのものだった。
 が、それで呆然となる「坊ちゃん」ではいられなかった。
 
 今、それをハコモノ行政と批判するのは簡単だ。
 が、当時は日本のポテンシャルを失った町の大半が、小樽と同様の路線を採用していた。
 高度成長に乗り遅れた小樽を悲観し、何とか「他都市並みの変化を」と多くの市民が切望していた。
 どんな変化なのか、などお構いなしだっった。
 一方、その高度成長のスクラップ&ビルドはマッチ箱のような街並みを形成し、結果全国に無個性な町を続出させおり、なにかおかしくないかという市民意識も時代の底流にあった。
 そして、時代は大きく変わりつつあった。
 ”地方の時代”の幕が、こじ開けられようとしていた。

 我々は道路が不必要だ、などとはいわなかった。
 小樽の新しい都市像・将来像とリンクした道路はどんなものなのかと、問題をたてた。
 現実は、将来的都市像もなく、ただただ道路ありきでしかなかった。
 そんな変化という名の破壊を拒否し、
 失ってはならない歴史的環境を磨くことで、
 マイナスとみられていた既存資源を、新たな視点で蘇らせ新時代的資源に転換・発展させていく、
 そのような個性あるまちづくりを推進し、
 それに魅了されて訪れてくる来訪者と市民の間での、交流と学びの都市として
 歴史的価値が集積する小樽のまちづくりをすることこそが、将来展望を引き寄せる、と語った。

 「白砂糖は、黒砂糖からつくられる」、つまり発想だった。
 
 それに感覚的に気づいていたのは、Uターン、Jターン、Iターンの、全国の大都市のアイデンティティ破壊や変化の後の無個性な町への変容を見てきた若者達だった。
 当時のカタログ文化時代を生きてきたが故に、その皮相的な上滑り感にウンザリしてきた地元の若者がいて、まだ町の政治決定構造やしがらみに組み込まれていない若者達がいた。

 夢街、
 それが誕生したそのとき、小樽運河保存運動の初期の高揚は、・・・完全に去っていた。

 当時の小樽の政治決定構造はまだ保守的で強かった。
 青年会議所OBの市長立起が、保守の票が割れて社会党候補を利すると潰されるくらいだった。
 小樽運河保存運動の担い手の小樽運河を守る会は、小樽はじまって以来の市民運動が潰されてはならないと、敢えて情緒的運動展開をしてきていた。
 その判断は、理解はできる。
 が、しかし既に限界にきていた。
 斜陽化しポテンシャルが喪失した小樽のまちの経済の再生を勝ち取らねば小樽運河保もえられないのに、そこに踏み込まないで逃げるスローガンでは小樽の将来像を巡る論争を市民の間に巻き起こせないどころか、小樽運河保存そのものすら勝ち取れはしなかった。
 自らが情緒的な理解への組織化だけに甘んじた結果、運動そのものの展望を切り開けず、結果路線的に孤立していくのは必然だった。
 山口が嘆いたものだった。
 「小樽運河を守る会例会で小樽運河周辺の環境整備をし、観光という新しい切り口で町を元気しなきゃだめだ」、と語ったら、
 「それは、資本の論理だ」
という化石みたいな抵抗にあった、と。
 小樽運河保存運動は、隘路に入っていた。

 一方、牽引していくべき層であった運動初期の経済人会員は、小樽運河埋め立ての行政手続きが進捗し行政との対立が深まるにつれ、小さな町での行政との関係上いずさは高まり、運動から去っていった。
 そのような情況からの脱却をと、若手経済人の中から青年会議所OBが市長選に立とうとしたが、小樽の政治決定構造はまだ強く保守乱立を名目に潰されて、中年世代は負ったその傷から立ち直れず、
 「お上に逆らったらアカのレッテルを貼られる
と、立ちすくんでいた。
 小樽運河を守る会の経済人の多くが幽霊会員化したが、しかしその離脱に憤りはもっても表だって非難するではなく、いつか再び登場する期待をこめて、彼らを「隠れ保存派」と呼んでいた。 

 この頃、北大工学部の足達住居地研究室の学生3人が卒論テーマを小樽運河に求め、小樽運河を守る会運動に関わりはじめ、それにJターン・Iターンの若者が参加しはじめ道路代替え案や運河地区再開発案などを作成しリーフレットなどを用意していた。

s51運河展

 が、小樽運河を守る会運動はかろうじて彼ら若者と峯山会長を初めとする主婦達の手で、生き延びていただけで、折角のそれらの案を市民の手に届けられる運動量を持ち得ないでいた。
 それでも、マスコミは小樽運河保存運動を行政・経済界対小樽運河を守る会の運河戦争と記事にしてくれた。

 が、その戦争に市民は不在だった。
 二〇〇〇人以上の職員を誇る行政と経済界vs二〇人に満たない小樽運河を守る会でしかなかった。
 当時人口一八万の小樽市民が、そこに全く介在していなかった。

 情況は、代替道路案を検討し、小樽運河を保全再生し、新たな賑わいのある空間にどうしていくのか、そしてその論議を全市的に巻き起こすために市民にどう働きかければいいのか、と問われていた。
 が、肝心の空間・小樽運河周辺の日常は港湾物流エリアであって、日々の生活に追われる市民には遠い存在だった。

 その小樽運河周辺に、小樽市民を誘おうと試みたのが、ポートフェスティバルだった。


ポートフェスティバル第一回ポスター

 北大住居地研院生の若者たちは、実は格好の参考事例を持っていた。
 福岡は長崎市の中島川祭であり、大阪・中之島祭が、それだった。
 前者はその川にかかる石造りの眼鏡橋を保全するため川沿いを会場にした市民参加型のまちづくりイベントであり、後者は中之島公会堂保存のための大都市型イベントだった。
 この事例にヒントを得て、小樽運河と周辺道路、そして運河に停泊する艀(はしけ)とそれに面する石造倉庫群を会場にした「運河保存再生とそれを柱にしたまちづくりイベント」として開催すれば、小樽市民をその空間に誘うことが出来、その空間をどうするのかとして運河問題の市民意識を掘り起こすことが出来、論議を巻き起こせる、と。

 が、とても月例会が15人程度、それも高齢の主婦が中心で若者が数人程度の小樽運河を守る会がそれを担うことは不可能で、北大の3人はあらたな小樽運河保存運動の担い手を探し求めた。

 一方、ライブハウスや喫茶店やパスタ店に、たむろする若者たちがいた。
 若者の多くはバンドを組みロックやフォークやR&Bなどに夢中で、その練習の成果を観衆にアピールできる場を求めていた。
 小樽の最大の夏祭りである潮祭りに参加し、トラックにPAを積み新作「潮サンバ」をひっさげて潮ねりこみに参加したが、会場に着くやいないや会場の電源という電源を落とされ、真っ暗闇で立ちすくむよりなかった。
 市民の一大イベント・潮祭に登場することさえ許されない若者たちの憤りと不満は鬱積した。 
 解決する道は、自分たちで主催する祭という場をつくるよりなかった。
 だが、小樽への思いや町への思いなどのエネルギーは充満していたが、若者達にそれを語る言葉がなかった。

 こうして、方やありあまるほどのエネルギーはあっても言葉・夢を持ちえない若者たちと、一方ありあまるほど言葉・夢はありながら運動量を持ち得ない若者たち、その両者が糾える縄のごとく出会うのに、小さな町小樽ではそれほど時間はかからなかった。
 出会った途端、ポートフェスティバルは構想案から実施案になった。
 手宮のメリーゴーランド
 静屋通りの叫児楼
 堺町のメリーズフィッシュマーケット
が、すぐさまその若者たちの集結拠点となった。

 連日連夜、深夜まで集い、ポートフェスティバル開催の準備が若者達の手で進んでいった。
 

ポートフェスティバル1978
 ↑ そして、第一回ポートフェスティバルのロック広場会場。

 プロレタリア小説の蟹工船や工場細胞で有名な北海製罐工場の空き地から、歴史ある小樽の町に、大音響のサウンドが初めて流れた瞬間だった。
 海から発せられ山間の斜面に反響するロックサウンドが、そこに住む市民をあたかも寄席の追い出し太鼓で追いすかように、家々から小樽運河に向かう人並みがあった。
 孫の手を引き、懐かしげに往時の運河の繁栄を語るシーンが艀(はしけ)会場のあちこちで見られた。
 


大家倉庫前の艀会場
 大学祭に毛の生えたレベルのスタートだった。
 が、ロケーションだけは天下一品だった。
 大家倉庫前の運河に浮かぶ艀(はしけ)は、↑のようにフォークソング会場となり、ジャズ広場となり、ビアホール会場なった。
 

大家倉庫前の出店 
 ↑ 小樽運河周辺の歴史的建造物の雄、大家倉庫前の路上の出店。

 まだフリマという言葉はない時代だった。
 押し入れやタンスの場所ふさぎの雑品を売ってみては、日頃の趣味で制作した品々を売ってみては、という実行委の呼びかけに道路促進派の経済人の夫人達が、日傘やツバ広帽子で顔を隠し出店した。

 フリマだけでない、まちづくり、アイデンティティという言葉も未だ使われない時代だっだ。
 勿論、プレゼンテーションなどという言葉も今ほどなかった。
 当然、パソコンもパワーポイントもない時代だった。
 が、小樽の若者は、
 自分たちの町がこう賑わって欲しい、とばかりに、
 小樽運河という現場を使った、プレゼンテーションを敢行したのだった。
 それが、小樽運河を会場にしたポートフェスティバルの出店会場だった。
 今で言うフリマとは違い、この出店には夢があった。
 ポートフェスティバルの出店は、道路建設をやめ周辺環境を整備したあかつきに、小樽運河に賑わいを取り戻す様々な文化施設や商業施設の・・・イメージだった。
 現場を使った、実際の賑わいを取り戻しながらの・・・プレゼンテーションだった。


ポートフェスティバル・運河周辺路上出店
 
 現場を使ったプレゼンテーションの迫力に勝るものはなかった。
 それが、以降、毎年7月初旬の二日間、17年連続開催された。

 最終回には・・・↓

ポートフェスティバル_ステージ01
 たった二日間、四〇万人もの来場客で、小樽運河がアスファルトとで埋まるのではなく、人でうまるビッグイベントとなった。
 ↑ 第一七回ポートフェスティバルのブルース収穫祭ステージの大観衆。

ポートフェスティバル_ステージ02
 ↑ポートフェスティバル・ブルース収穫祭ステージの周囲は、近隣市町村からも出店の嵐だった。
 後志の町村から、ポートフェスティバルのような地域まちづくりイベントを起こしたいという若者達も大挙し、そのノウハウを学びながら楽しんだ。

ポートフェスティバル_夜01
 ↑ コンパネ一枚の幅を間口とする出店がその数400軒、小樽運河を取り囲み、第三埠頭基部を埋め尽くした。
 
 ポートフェスティバルの二〇代の若者が、香具師のようにその地割りを采配・手配をした。
 あまりの来場者に二年目からはテキ屋が進出しようとし、それを阻止するのに実行委は頭を悩めた。

 ポートフェスティバル_出店
 ↑このポートフェスティバルの、たかがコンパネ一枚の幅・間口であったが、その数400軒の出店でもって、小樽運河を保存再生したエリアに進出し再び賑わいを取り戻す様々な施設や空間をイメージしてくれ、と提案した。


ポートフェスティバル_夜02
 ↑大人達は、
 古き良き革袋(都市)に新しき酒(人と賑わい)を
というまちづくり提案を、ポートフェスティバルの若者が現に実証した姿に、頷くよりなかった。

 そして、小樽運河保存運動は、このポートフェスティバルの成功と毎年開催をエポックとし、息絶え絶えの少数派運動から多数派獲得運動に大きく舵を切っていった。

 そのポートフェスティバルの先頭になり、準備し、運営し、次の展望を導きだそうと奔走したのが、通称・夢街、小樽夢の街づくり実行委員会だった。


小樽名建築番付カレンダー520


 夢街。
 兎に角、一つの運動とそれを担った運動体のことを書くほど難しいことはない。
 なぜなら、その一人一人が係わりはじめたときの入射角度が、それぞれの数だけあるのだから。
 語り出したらきりがない。

 皆、その町の地べたで生きている若者であり、
 その地べたの世界のしがらみから抜け出そうと悶々とし、
 一方抜け出したとシニカルにはいうものの、現実は裏腹で最もそれに規定されているそんな心優しき若者の運動体が「夢街」だった。
 加入手続きをするではない、辞める際も脱退届けを出すわけでもない。
 会計担当から会費徴収されて、自らが夢街だったことを自覚した。
 そんな手続きに拘束されない自由さと、その裏腹の責任との間での右往左往の運動体だった。
 一人一人が夢街であり、こいつの夢街とあいつの夢街で、それぞれやりたいことは違っていた。
 が、違っていることを、大事にした。
 「それって、夢街に似合ってねぇ、って」という一言で、前夜まで散々論議して打ち出す提案が歯牙にもかけられず、頭を抱えたものだった。
 そんな若者が、ポートフェスティバル第一回が成功裏に終わり、打ち上げキャンプを海岸でし、皆、缶ビール片手にたき火の炎を魅入りながら、胸の内を吐露した。

 「何で、大学祭に毛の生えたような稚拙なイベントに、8万人もの来場者があったのか」
 「ポートフェスティバル実行委自身の力だけで、そこまではならんかった」
 「若者のイベントという判官贔屓はあっただろうが、やはり小樽運河という存在、小樽運
  河と周辺の石造倉庫や歴史的建造物が醸し出す最高の空間に惹かれて来たんじゃないか。」
 「廃れ荒廃したとはいえ、小樽運河はまだ小樽の人の存在証明みたいなもの、小樽人たる
  パスポートじゃないか。」
 「ポートフェスティバルみたいな空間が一年中あれば、町はもっと賑わい、俺たちみたい
  若者の働き口も多くなるのじゃないのか。」
 「だが、運河が埋め立てられる、その会場がなくなる。」
 「まだ、遅くない、小樽運河が新しい賑わいづくりの拠点になるような、単なる道路建設
  反対運動ではない、まちづくり案を提案するイベントにしたい。 そして、来年もポー
  トフェスティバルを開催し、それを市民に訴えていくべや。」 
 「だったら、今年のポートフェスティバルのような準備期間不足はだめだ、今から来年の
  ポートフェスティバルを準備する必要がある。」

 ・・・こうして、小樽・夢の街づくり実行委員会が生まれた。
 ・・・しかし、ポートフェスティバルの開催は全員の共通した問題意識だったが、小樽運河保存は仲々意識化されなかった。
 話は長くなったが、それの突破口が、最初に記した「水とり山」だった。

 そして、夢街は次々に小樽のまちに打って出た。
 ポートフェスティバルの若者はそれを、「小樽という町とSEXするんだ」と真面目に呼んだ。
 自分たちが動けば、町も人もそれに合わせて声を上げるようになる、と。
 言い得て妙ではあり、しかし我々はそうは言えなかった。(^^)


夢街タウン誌・ふぃえすた
 ホームページやブログなどない時代だった。

 自分の言葉で、自分の『まち』を語り、それを市民に届けるため、
 ↑ 夢街の機関誌的存在、タウン誌・ふぃえすた小樽が発刊され、その編集部が居酒屋におかれた。
 今の時代なら、情報発信ワークグループだった。

 今のようなウェブサイトやブログなどの、あまりにも手軽な情報発信ツールがないのが良かった。
 売るためには購読を薦める、生で夢中で語らねばならなかった。
 売れなければ発刊できず、買ってくれれば反応を知り、記事が褒められれば嬉しく、それが次の発刊に生きた。
 自分の言葉を持つ、偉大な力だった。


小樽運河案内板
 運河の保存と再生の声が大きくなっても、道路建設の行政手続きはときには強行採決で進んでいった。 
 市議会という土俵での運動であればもう展望はなかった。
 そういう市議会の動きに左右されないと宣したものの、空気は重くなり沈滞ムードがながれる。
 何か、身体を動かし、目に見える結果を出すことでその沈滞ムード、厭戦気分を打破しなければならなかた。
 そういうときはいつも現場、小樽運河で何をやるかと皆で思案した。
 そのひとつ。
 自分たちで草刈りをし、小樽運河護岸に「小樽運河案内板」をつくり、設置しようとする。
 方針は出さず、出された方針をなんでもマイナスにしか捉えない人が必ずいる。
 国や道の管理する小樽運河護岸に勝手に設置したら、その作業中に補導されるのではないか、と心配する声が上がった。
 もし、それで官が問題にし補導し撤去などしたら、すぐさま新聞が報道し、小樽運河論争という火種に油を注いでくれる、と計算することのないウブさもあった。
 それをにやにやして見る私がいた。
 「確かに運河周辺の案内板だけなら市や小樽土木現業所などナーバスになっている。
  が、運河周辺に捨てられる不法ゴミ投棄は目に余る。
  その不法ゴミ投棄防止を訴えながらの小樽運河案内板なら、環境美化のために若者がわざわざ私財で作った、となる。
  おもしろくないか」
と。
 皆の目がキラリと光った。
 そして、↑のような手作り看板が草を刈られた運河護岸に立てられて。
 結局、小樽運河保存運動が決着するまで、設置した小樽運河案内板は撤去されることはなかった (^^)


S5311共同アピール

 ( ↑ クリックすると拡大画像が開きます。)
 今読み返しても今の小樽にそのまま適用される内容をもつ。
 
 夢街結成直後の昭和53年11月。
 市内全域に配布した「よみがえれ小樽運河ー保存と再生を求める共同アピール」フライヤー。
 小樽運河を守る会・小樽運河を愛する会(東京)・小樽運河問題を考える会(札幌)・小樽・夢の街づくり実行委員会の四団体が、初めて統一したチラシを配布した。
 この共同アピール配布は夢街・小樽運河を守る会が班を作って、市内全戸に一軒一軒配り歩いた。
 皆は全戸配布の力仕事をやりきり、しかし終了すると二度としたくないと悲鳴を上げた(^^)
 が、夢街の機動力が、小樽運河保存運動のそれまでにない運動量を保障するという実績をアピールした意味は、大変大きいものだった。
 つまり、自分たちの主張を全市民に届けることが出来るという、全市的市民運動へ拡大させると宣言したようなものだった、のだから。
 これまで、小樽運河を守る会だけを相手にし「アカ」のレッテルを貼り、それを孤立化させる対応でよかった道路促進派は、市民の目を意識した対応をせまられることになった。
 運河埋め立て道路促進派は、それまでの小樽運河を守る会の運動パターンとは全く違う存在を相手にすることになり、虚を突かれた。


小樽運河研究講座ポスター
 市民への情報発信だけでこと足れりとする、わけではなかった。

 ↑ 夢街と小樽運河を守る会で三期20数回開催された「小樽運河研究講座」、その第一回開催のためのポスター。

小樽運河研究講座ポスター
 各講義の講義録は、皆で夜集まりテープ起こしをし、手書きでそれを印刷製本した。
 この講義録づくり作業そのもので、一人一人の夢街と小樽運河を守る会のメンバーの頭脳に講演内容が染みこみ刻み込まれていった。

 小樽運河保存運動は単なる道路建設反対のための運動ではなかった。
 確かにそれは小樽運河を埋め立てて道路建設から端を発した、が、それは日本全国で展開される地方都市計画とはなんだったのかを鋭く問うた。
 だからこそまちづくりという言葉が対置された。
 凍結保存派は、結局11年の運動でもそこに踏み込もうとはしなかったのだが。
 運河埋め立て道路建設のための都市計画であり、都市の将来像なき他都市並みの変化という名の破壊であることを問い、それを強行に推し進める市議会と市民自治・自己決定権を鋭く問うた。
 行政や経済界を問うただけではなかった。
 日本に市民社会はあるのか、市民民主主義は根付いているのかと問い、その町や地域で生きるという自分たち市民をも問うた。
 市民が小樽という町の将来像を自ら持つことヌキにまちづくり市民運動は継続しないし、その将来像を獲得するためには自ら学ばねばならなかった。

 外に保存と再生を問いかけながら、その自らの内の啓蒙の場が「小樽運河研究講座」だった。
 
小樽運河研究講座会場風景
 全国から若手の研究者や都市計画専門家、放送界・文化人・哲学者などあらゆる伝手を使い講師に招いた。
 第一回は倉本聰・守分寿男両氏が「文化でメシが食えるか」をテーマに語ってくれた。

 以降、多くの若い研究者の日頃の調査・研究が、小樽運河保存運動というまちづくり市民運動の現に闘われている現場に活かされるわけで、皆さん、手弁当で駆けつけていただいた。
 サンフランシスコのゴールデンゲートウェイセンターの港の倉庫群の再開発が、ウォーターフロントと回遊でき、24時間都市となり、終日多くの人々が集まると聞き唖然とし、 不要になった港湾施設を修復した先駆的再開発地区では、ジラデリー・スクウェア、ザ・キャナリー、フィッシャーマンズ・ワーフ、ピア39が、世界中から若者を集める新しい名所となっていると聞き目を剥いた。
 ボストンのクインシー・マーケットやファニュエルホール・マーケットフレイス地区は、港の倉庫群をショッピング街に修復した事例で唸り、ボルチモアのウォーターフロント開発は三〇年計画だと聞き、呻いたものだった。
 ロンドンの都心のコベントガーデン地区の青果市場跡を市場のイメージを活かし、広場と文化・商業・業務、周辺の住宅が一体化し再開発し新しい名所となり、セント・キャサリン・ドックとドック・ヤード地区の造船所跡地で港の雰囲気を残し、商業・貿易センター等の業務、周囲の住宅からなる歴史を活かしたまちづくりなど、それらをスライドで見せつけられての印象は、目に焼き付いた。

 最新の研究者たちの、スライドを駆使した世界の歴史的建造物の再活用事例やウォーターフロント開発事例を知識として得て、我々はそれを小樽弁に翻訳し、講座で学んだ事例を小樽運河地区に当てはめ、即町中で語る材料と根拠、武器にしていった。
 この運河研究講座で培われたネットワークが、小樽運河保存運動を全国性ある運動展開に大きく寄与していった。 

全国町並みゼミ
 第三回、全国町並みゼミ小樽大会のチラシ。

LOFT基金ポスター1

 2008年、小樽市は「小樽ファンが支えるふるさとまちづくり寄附条例」を策定実施した。
   1.  旧国鉄手宮線の保全および活用事業
   2. 市立小樽文学館および市立小樽美術館の整備事業ならびにその周辺の整備事業
   3. 小樽市総合博物館の展示鉄道車両の保全事業
   4. 小樽市公会堂の能楽堂の保全および整備事業(平成21年度より追加)
   5. 「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」に基づく登録歴史的建造物の保全事業
   6. その他目的のために必要と認める事業
の各事業に賛同していただける全国の「小樽ファン」から基金への寄付を募り、まちづくりを進める。
 2008年度は、185人から3,308万236円の寄附が集まった。

 しかし、小樽運河保存運動真っ最中の1982年(s57)年にもうそれを志向する、ポートフェスティバル実行委が企画した「市民の手による倉庫の再生買い取り募金」・通称「ロフト基金があった。


LOFT基金ポスター2
 今で言う、自立した自前のコミュニティビジネス志向の運動だった。

 が、小樽運河保存運動が高揚すると同時に石造倉庫の価格はうなぎ登り、市民運動展開だけでは無理だった。 小樽運河保存運動初期、坪15万円だった倉庫は平成バブルの頃には坪400万円、観光事業者の目は血走り逆立ち、心ない再活用で席捲されていった。
 
 夢街は、ありとあらゆる先進的な運動形態をポートフェスティバルというまちづくりイベントを通じて企画し、展開していった。
 ポートフェスティバルの出店こそ今で言うフリマの走りであり、
 小樽運河研究講座は、今、小樽商工会議所が軸となり開催されるご当地検定・小樽観光大学」の走りとも言えよう。
 ただ、それが行政との対立構造の中での運動的である分、そして若者だけの手によるモノである分、連続性を保持することでは限界があった。
 ポートフェスティバルこそが、小樽運河保存運動期間、ありとあらゆるまちづくりチャンネルの役割を担った。

 勿論、夢街はどこかの政党のように綱領をもつわけではなく、完全にひとつになったわけではなかった。
 小樽運河保存運動にポートフェスティバルがかかわることで、政治的に引き回されることへの危機感をもつ若者達もいないではなかった。
 とりわけ、労組での政治経験でそれに懲りた若者もいないではなかった。
 そうでなくてもいわゆる55年体制下であり、行政に反対するのは「アカ」というレッテルを即貼られるカラーリングの得意な町であり、出る杭は打つという平準化の論理が斜陽の町では一層強かった。
 そんな情況下で、夢街がお上に逆らう小樽運河保存運動に入っていくことには躊躇し、去っていく仲間もいないではなかった。
 そして、路線で袂を別った人もいる。

 夢街の会長がそれに一番悩んだ。
 氏は男気で圧倒的な支持を受ける会長だった分、仲間が去ることに一番敏感であり、心優しさが全ての人物だった。
 それに悩み、付き合わされ、したたかに酔いながら回答のない会話をし続けた。
 「今、去って行く仲間もいる。
  互いの違いを認め合って、あつまっている夢街じゃねぇか。 
  会長がとことん話し、それでも自らの意志で去るなら、黙って見送るしかない、
  排除したんじゃないのだから。
  夢街に残る残らないなんて一〇年スパンのまちづくり運動からみたら小さくねぇか、
  同じ北の一地方都市・小樽の小さな街に住むんだから、
  いつか又別な場面で一緒に肩組むことだってあれば、戻ってくることもあり得るのだか
  ら。」
 と、会長を慰めながら、自分の口中にある苦いものを無理矢理呑み込む私がいた。

 爾来、三〇年経った今も、その思いで至ってきてはいる。

夢街・小樽祭暦3

 喫茶店を営む山口たもつと出前担ぎの蕎麦屋の息子が仕事を終えて疲れた身体で、深夜、手をインクだらけにして手宮の喫茶・メリーゴーランドを工房にしてつくった、活動資金づくりのためにシルク印刷でつくり販売した夢街カレンダー。
 学生時代の杵柄で、寄席文字や江戸文字をみよう見真似でつくったものだった。
 小樽名建築番付カレンダー、小樽夢街祭暦、そして夢街印半天・・・。
 徹夜を厭わない若さで、字は荒い。
 が、もう二度とこの元気さのある字は書けない(^^)
 

コラージュ
 
 小樽運河保存運動の夢街。
 そこには、間違いなく小樽の若者たちが、居続けた。

 その小樽運河保存運動が敗北し、小樽運河観光が大爆発し、理念を失ったまちづくりイベント・ポートフェスティバルは小樽運河保存運動敗北も開催され続けはしたが、ついに主体的にもその限界に来て、
 皆、一個の人間にもどり、またまちづくりでやらねばならない課題が浮上したとき、再結集しよう。 それまでは、自分の店を、跡を継ぐ店を盛り立て、会社勤めのスタッフはポジションアップし、皆、社会的地位を獲得し、大人の力をつけて再度参集しよう、と・・・自ら解散した。
 涙を流し、継続を望むスタッフもいた。
 一年をかけての論議の末、第一七回最終回、テーマは「完」だった。

 若者たちが去っていった。
 観光出島化した小樽運河から、去って行った。
 小樽運河地区をそこまでした主体が存在しないまま、小樽運河は小樽を観光都市にしていった。
 そして、運河地区にも堺町通りにも、「地域に生きる」寄り合いは・・生まれ得なかった。

 主体無き小樽運河観光、そう、それが小樽観光のこれまでの二〇年だった。
 

艀520  ↑ 今、一艘だけ現存し、小樽運河北側の小樽運河公園前に停泊する艀(はしけ)

 ポートフェスティバルの17年間、小樽運河保存運動が何度も行き詰まっては、夢街も深夜まで会議し、それでも答えが出ないと、その打開を求めて「現場で話すべや」と会議の場を艀に移しては、真夜中でも語り合ったものだった。

 若かった。

 ・・嗚呼、青春が如き甘美な響きを持つ言葉は、世にまた得がたかるべし。

 されど我が脳裏に一点のそれを憎むこころ、今日までも残れりけり。

 それを、夢街という、北の一地方都市で勃興し消えていった若者のまちづくり運動の、結びにしたい。
 


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