・おおよそ三年間の第1期小樽市観光プロジェクト推進会議は、
●1年目 小樽市観光都市宣言草案作成
●2年目 小樽市観光基本計画が掲げた当面の6課題の精査とそこから最重要実施方針を
策定し、実施する。
具体的にはリーマンショック以降の経済の急降下と海外訪日客の激減に苦しむ
小樽観光のゲートウェイ・堺町通りの賑わいづくり事業の展開と同地域の主体
の形成と確立。
●3年目 小樽市内の時間消費型観光プロジェクトへの積極的仕掛けと立ち上げ
という経緯で、猛烈に走り抜いてきた。
【
1.小樽観光都市宣言の草案づくり】
9ヶ月の論議を経て、小樽市長に2008年4月提出し、市議会本会議で議決された。
第一次案から何バージョン目で最終草案になったか、今は記憶をさぐるよりない。
が、委員全員にあった問題意識は他都市にない宣言を、であった。
通り一遍の「まちをあげての観光政策宣伝」の宣言を草案化する気持ちはさらさらなかった。
日々、観光現場に駆けつけ、蠢き、資金源に悩み、たくらみながら挫折を繰り返し、それでも小樽観光を担ってきた小樽市観光プロジェクト推進会議の面々だかこその「観光都市宣言」草案ををと。
そして、
1)なぜ観光二〇年で全国ブランドに成長した観光小樽が、今さらながら観光都市宣言をしなければならないのかを明確にし
2)市外より市内に向けて、小樽観光の経緯を敢えて述べることで
3)小樽市民に小樽の観光まちづくりの主体的自覚を促す
という、宣言にすることを勝ち取れた。
11人の委員全員が押した
《今さら小樽は観光都市宣言》というタイトルは、残念ながら敗北したが・・・
日本各地の観光関係者から、「本来あるべき観光都市宣言のモデル」と評価されながら、残念ながら市内での認知はまだまだ低い。
だからこそ、小樽市観光都市宣言は意味がある。
当初だけ持てはやされる宣言など必要なのではない。
地下水のように底流を染み渡っていく流れであればいい。
これから官民一体となった
「
小樽市観光都市宣言ー今こその心意気」
の宣伝啓蒙認知が課題である。
【
2.夜の賑わいづくり事業・・・堺町を事例にして】
「新いいふりこき宣言ー小樽市観光基本計画」で、時間消費型観光として愁眉のテーマは、
1)小樽ブランドの確立と地場産業と観光の結びつけ
2)夜の魅力づくり
3)道央圏対策
4)FC活動の活性化
5)旧手宮線の活用
だった。
その中で、5本柱に沿い30ちかいフラッシュアイディア論議からの事業提案を委員全員から頂いた。
この中から、既に小樽市観光振興室や小樽観光協会など諸団体で取り組まれている事業に関しては連携強化支援をすることとした。
そして、小樽市観光プロジェクト推進会議としては、
他の団体が取り組みたくても仲々出来ないで来た積年の課題、 市長に委嘱された小樽市観光プロジェクト推進会議こそが担うべき課題への挑戦、と論議が集約され、
「夜の賑わいづくりと商店街の賑わいづくり」
を重点課題として設定した。
小樽観光のゲートウェイたる「
堺町大通り」
硝子・オルゴール・寿司の三点セットでの二〇年間の日本人観光客マスツーリズムに酔い、マンネリ化で日本人観光客の減少傾向に陥っていた。
運良く日本人観光に変わる、台湾・香港・韓国など東アジアからの訪日観光客の増加で凌ぎ、次の
境町大通りの根本的戦略課題を用意しないできた。
が、襲いかかったリーマンショックは日本経済の急降下的冷却と円高による海外訪日客の激減となって、
堺町大通りを猛烈な逆風の嵐に投げ込んだ。
年間入込数970万人(H11)を境に、750万人台まで毎年、一自治体の年間入込数に匹敵する観光客の激減に遭遇しながら、9.11テロとアフガン戦争、BSEにSARS、サッカーワールドカップやオリンピックなどビッグイベントとの関連で、減少の要因を自然条件や社会条件に求め、そのような自然・社会条件に左右される脆弱性を放置したまま、
それを乗り越える
主体的な、持続発展可能な観光実施プランの準備をせずにきた。
そのツケが、付け馬つきで襲いかかってきたわけである。
その
堺町大通りの大半の観光施設が、二〇年間隣近所同士で日常会話もせず、横の連携もなく、自分の足元だけをみ自分の商売だけをしてきた。
小樽市観光プロジェクト推進会議の呼びかけで、最初に
堺町大通りの70数軒の店主・店長が集った会合では、名刺交換を隣店舗同士でするシーンを見て、ため息がでたものだ。
それほど観光客に特化した通りだったのだ。
店長を配置する施設は、その店長が札幌からのマイカー通勤で、仕事を終わって同通りの店主や店長間で呑みながら談笑することも、体質的になかった。
自社が商いをする施設の存する通りや街に、無感動だった。
しかし、観光客向け土産商品のみを一〇年一日のごとく売る施設に今観光客は見向きもしない。
その町の人々に評価され、その町に住み生活する人々が贔屓にする店やモノを求める時代に入っていた。
観光二〇年を経って、観光客も観光現場に従事するスタッフも、成長しているにもかかわらず、経営者だけが、ただレジ伝票の数字だけしかみてこなかった。
だらか、リーマンショック以降、不況に耐えて好景気が再度訪れるまで、
人
員削減や拡大展開した施設撤退の経費節減策で凌ぐことでしか展望を持ち得ないで、ただただ訪日海外観光客で凌ぎに凌いでいる。
かつて、日本各地の商店街が、売ることに特化した商店街をめざしてしまい、ウィンドショッピングや地域の交流の場であったことを忘れ、寂れてシャッター通りに成り果てた歴史が、今、観光客に特化した境町大通りで再び繰り返されている。
堺町の観光施設はもはや観光客のみをターゲットにした商いから脱却しなければならなかった。
観光客向けに特化した通りからの脱却であった。
それは、
わずか30分の距離にある200万人が住み生きる札幌圏と小樽市民こそを、ターゲットする戦略を採用することであり、観光土産品ではなく多様化したライフスタイルにあった、小樽だけでしかないモノこそを販売する路線にシフトするべきであった。
そうすれば、自然条件や社会条件に左右されない安定した顧客層を獲得でき、
小樽滞在1時間半から2時間のトイレタイムとゴミだけのマスツーリズムに依拠しないで、
町巡り・まち逍遙をしていただく
時間消費型観光顧客に依拠する観光都市・小樽をイメージできる。
それを小樽市観光プロジェクト推進会議は、
「日帰り観光の王者になろう」
と表現した。
そして札幌が真似しようにも出来ない歴史的環境の落ち着きとシックさを資源とする観光都市として磨きをかけていく観光まちづくりを、堺町通りの各施設が小樽観光協会に加入し一員として推し進めれば、小樽市民は「小樽の店」と認知するのであった。
・しかし、現実にはそれは困難な道だった。
とりわけ夕方5時過ぎには店仕舞し夜は暗闇になる堺町通りを夜も賑わせようという小樽市観光プロジェクト推進会議の提案は、人件費を初めランニングコストのかかる経営に係わる分、小樽観光の雄といわれる施設ですら二の足を踏んだ。
他人様の経営にまで踏み込むのか、と小樽市観光プロジェクト推進会議は躊躇もした。
そのために、会議をうるかしもした。
そして、全員一致で踏み出した。
ゼロからの働きかけを開始した。
初めて小樽市観光振興室・小樽観光協会・雪あかりの路実行委員会、そして小樽市観光プロジェクト推進会議というオール小樽の観光関係者が関わり発足した「堺町通り賑わいづくり協議会」の呼びかけに、当該堺町通りの観光施設は
第1回堺町ナイトマーケットのは80社、
第2回堺町夏祭り食べ歩きラリーには70社、
第3回クリスマス食べ歩きラリーには50社
が参加した。
・堺町通りには160軒以上の大小の観光施設があり、巷ではその大半が市外事業者の出店だと言われてきたが、実はその真逆だった。
一軒一軒の施設に継続的に働きかけをしていくなかで、堺町を通れば声掛けがかかる関係ができあがっていき、寿司屋やスィーツを中心に「堺町通り賑わいづくり協議会」の核が形成された。
その試みは、堺町の寿司屋やスィーツの店主達にとって、
「市民にとっては堺町の施設は観光客向け」と見向きもしてくれないのではないかという不安から、
「小樽市民が来店してくれる喜びを身体で味わう経験」に転化した。
今年の雪あかりの路では、無理な売券に偏る食べ歩きラリーを今回だけはパスし、しかし堺町通りが一体となってやっていくことを象徴する
雪あかりの路オブジェをメルヘン交差点に皆で作ろう、来年度はメリハリある事業日程をしっかり準備した事業展開をしようと、自立した堺町通りの横断的組織づくりをしていこうとまで到達した。
堺町通りで様々な企画を担う中心軸がないなかで外から働きかけても成果は望めない、とする意見が小樽市観光プロジェクト推進会議の中でないではなかった。
が、それを小樽市観光プロジェクト推進会議は果敢に働きかけ、堺町通りの皆さんが応えてくれた。
種は蒔き、芽が出てきた、堺町通り賑わいづくり協議会事業であった。
一部には、市役所だのみ、小樽市観光プロジェクト推進会議だのみの傾向があるが、これからは自前でどう運営していくか、という局面にきた。
鍋料理でもそうだが、昆布は自らだけが光っては意味ない。
様々な具を光らせ全体的にどう味を引き立てるかに、昆布の良さと役割と特性がある。
しかし、昆布がなければ味はきまらない。
そういう昆布の役割を、堺町通り賑わいづくり協議会は担わねばならない。
【
3.時間消費型観光プロジェクト・イベントへの仕掛けと立ち上げ】
・そして三年目、論議自身は少し息切れがしてきた小樽市観光プロジェクト推進会議ではあったが、各委員が現に市内で時間消費型観光プロジェクトを仕掛け、立ち上げる活動展開の一年であった。
・小樽市観光プロジェクト推進会議の唯一のワーキンググループ、天狗山WGが地道に会合を重ねてきた
天狗山観光プロジェクトは、天狗山だけではなくその山麓と市街地までを組み込んだ小樽フットパス構想とも呼ぶべきもので、その中心である中央バスの意向も加わり、全市的プロジェクトチーム作りを市長が市議会表明をするに至った。
これからは、小樽市観光プロジェクト推進会議の手を離れ、それが天狗山プロジェクトの推進軸となっていく。
まだ目立たず光があたってはいないが、それだけ慎重かつ大胆に論議を進めていただきたいのが小樽市観光プロジェクト推進会議の願いである。
・
小樽シャコ祭りの第2回は初日は生憎の雪模様であったが、昨年度のTV報道の成果もあり、11月の観光端境期に3万人の来場を得るまでに「化けた」。
小樽観光はじまって以来の、小樽市漁協と小樽観光協会のコラボレートの時間消費型観光の典型イベントであり、
観光と地場産業の連携の文字通りニューツーリズム展開の事例といえる。
三年前から企画は始まり、今年は、シャコのエキスの商品化も成功し、そのエキスを使用した市内飲食業界の評価も高く、単なるイベントを越えた、
水産業・観光産業・飲食業・製造業という地場産業市内循環システムと言っていいだろう。
小樽市、小樽観光協会、漁協一体となったその宣伝が、一層の展開を生み出すと確信できる。
イベント開催の主任務を漁協に委ねてきた過去の2回だが、次回は小樽観光協会のイニシアティブでのイベントそのものの内容充実と来場者満足度を高め、毎年新しさを表現していくことが、3回目以降の課題である。
・
祝津・たなげ会とにしん祭り。
2008年に誕生した祝津・たなげ会は、朝里川温泉・天狗山・祝津という市内3大ネットワークの重要な環であったが、仲々地域主体が形成されない最後の地区だった。
そこに、やっと活動主体ができた。
水族館・漁師・水産加工・観光事業者・一般住民というオール祝津の全階層が参加する団体が誕生し、屋号再発見・漁場建築再発見・漁場料理復元・展望台ネーミングと活発な地域再発見運動を展開をしてきた。
漁師・漁師町という大変気性の難しい祝津。
町内会、祝津祭り(神社)、花火大会実行委と明確に分かれた祝津独特の特殊性をもつなかで、
オール祝津を体現する「にしん祭り」の第一回を開催した。
この流れを途切れさせないで、祝津・たなげ会を軸に全住民の集結する拠点を設けてそれを継続しようと、国土交通省・平成19年度建設業と地域の元気回復助成事業に申請し、小樽運河保存運動以降はじめての、オール小樽=小樽商工会議所・小樽市・小樽観光協会・小樽建設事業協会・祝津・たなげ会・しりべしツーリズムサポート・北海道職業能力開発大学という北後志風土ツーリズム協議会を設置し、その申請は全国154カ所の一つに選定された。
申請から9ヶ月を要したが、年末、所有者と事業管理者=小樽商工会議所とで脩復工事と以降の番屋の活用策で締結が出来、修復工事会社の入札も終了、来年度ニシン祭り開催時の竣工をめざす。
修復なった茨木家中出張番屋が姿を現すと、青山家(貴賓館)、白鳥家(群来陣)、そして茨木家中出張番屋(コミュニティーセンター)と三大網元の歴史的建造物が揃い踏みする祝津となる。
町内のコミュニティーセンターとして活用する手立てを竣工までに準備していき、祝津・たなげ会が茨木家中出張番屋運営を主軸で担うことで町内会との関係を構築し、ニシン祭りの継続展開と祝津地区の活性化の可能性を一層高めるられると展望する。
・
旧国鉄手宮線・ガラス市 硝子・オルゴールと観光小樽は20年の時が過ぎた。
24工房が市内に展開する小樽硝子は、中小企業庁のジャパンブランド事業として選定を受け小樽商工会議所を軸に市民的裾野の拡大を追求してきた。
が、残念ながら観光面での小樽硝子認知はあっても、市民の「ガラスの街」という認知は20年の歳月でも未形成であった。
小樽硝子が本物の地場産業として瀬戸物で歴史的に先行している瀬戸市や有田のように全市的認知を獲得するためには、より市民との間にある距離を狭め、市内3000軒ある飲食店や観光施設での小樽硝子使用による認知を促進するための手立てを構築することであった。
小樽蕎麦商組合傘下38軒の蕎麦屋の猪口・トクリ・薬味皿の小樽ブルー硝子器使用などはその典型だったろう。
潮祭りと同時開催で、小樽のアイデンティティである旧国鉄手宮線を会場とし、市内工房・在道工房・東京硝子メーカーと30社での「小樽がらす市」はその準備期間の不足にもかかわらず2万人の来場を得る成功と、旧国鉄手宮線の持つロケーションとしての存在意義を再確認するものであった。
市内観光施設も初回開催ということで成功を不安視しながらの参加であったが、その市民来場客との交歓と売上も含めて好印象で終了した。
これが毎年開催され、規模を追いかけず質を追求していけば、しゃこ祭り同様化けることは可能である。
24のガラス工房も会議での連携レベルから、一つのイベントを開催し同じ汗をながすことで、横の連携とオール小樽硝子団体形成が展望できるところに来た。
問われる課題は2つ。
ひとつは、「ガラス市は産業振興であり、観光とは関係ない」とする行政の縦割り感覚である。 ・・・同じ部のなかの課が違うだけで、この意識感覚は、呆れ果てる。
観光が観光独自で生きていくなど夢想であり、その町の地場産業の上に立脚しない観光は、観光産業ではなく土産業界でしかない。
シャコ祭りの本質がそこにあることを述べてきたが、如何に地場産業が観光という切り口を利用し相互依存し発展していくのか、が鍵であることを小樽の町は20年かけて知った。
にもかかわらず、上記のような縦割り意識感覚では、小樽の商工振興は一層立ち後れる岳しか意味しない。
このレベルから脱皮しないと「小樽ガラス市」がより市民的裾野は勿論、道央圏住民という安定した顧客開拓は難しい。
もうひとつは、もはやお土産品的硝子販売からの脱却に挑戦すべき段階にきていることでる。
日本全国の観光地にお土産品硝子は溢れている。
観光客と言う名の消費者は多様な価値観のなかでモノを見る目が養われ、友人知人にお土産硝子を買う体験は一回りし、自分たち自身の愛用品としての硝子を求める時代に突入してる。
家族が寝静まった夜ひとりバカラのタンブラデーととっておきのシングルモルトを楽しみ、連れ合いと「飲み物の個性がグラス形状を決定する」とのコンセプトで作られたリーデルのワイングラスでお気に入りのワインを愉しむ。
ちょっと背伸びして使ってみたい、そんなテーブルウェアの硝子を、小樽硝子こそがライフスタイル提案として顧客層を開拓しロイヤリティの高い馴染み客にしていく、200万の札幌圏をもつ小樽だからこそできる路線である。
それに各ガラス工房の作品群、これがコラボしてこそ本物の「ガラスの街」になれる。
小樽の硝子販売店にバラカのタンブラーシリーズが並ぶのはいつのことか。
以上、3年目の小樽市観光プロジェクト推進会議は、
種を蒔ききったと振り返ることが出来る。
結論
小樽市観光プロジェクト推進会議は、その意味で
三年間目一杯の役割を果たしてその任期を迎える。
小樽市観光プロジェクト推進会議は黒子役である。
小樽市観光プロジェクト推進会議自身がスポットライトを浴びる必要はない。
が、観光20年の戦略なき小樽観光で出来上がった殻を打ち破り、ニューツーリズム展開ををめざした時間消費型観光の実施プラン策定と実際の行動は、10年スパンの働きかけが必要である。
それには畑を起こし、種を蒔く、目立たないプロセスが要求される。
観光小樽が背負う観光20年の財産は、プラスもマイナスも腰に来る重さなのだ。
スタートした当初、マスコミは「
岐路にきた小樽観光」と表現した。
そして3年を経た今、小樽観光は、小樽市観光プロジェクト推進会議の全面展開をやってきつつも、リーマンショック以降それは「
危機の小樽観光」と変わった。
堺町通りは、北一ガラス・マルコポーロの閉店、銀の鐘?号館の閉鎖、匂いの館閉店といよいよ閉鎖施設が現出しはじめ、本年度末まで更に続出するであろうと言われている。
小樽市観光プロジェクト推進会議の危機意識からの予想は、中小零細観光施設の閉鎖が2009年から開始してもおかしくないというものだったが、事態は一層深刻で、大型観光施設からそれは始まっている。
その意味で、堺町賑わいづくり事業に見られるとおり、小樽市観光プロジェクト推進会議は論議を後回しにし種を蒔く実践を優先してきたきらいがあった、と自省している。
が、それを仕掛けてこなかったら、堺町通りの事態は一層深刻であっただろうといえる。
堺町通り賑わいづくり事業では、象徴的なエピソードがある。
堺町通り賑わいづくりを仕掛け、第一回ナイトマーケット、第二回堺町夏祭りには参加いただけなかった堺町の雄の観光施設が、第三回クリスマス食べ歩きラリーに初参加し、特大ケーキと提供し好評を得、更に小樽地場スウィーツと連携しマロンコロン販売をするとなった。
それが底流となり、本流になってエピソードではなくなる小さな始まりではある。
小樽市観光プロジェクト推進会議は、旅行代理店に依拠するゴミとトイレタイムのマスツーリズムから、時間消費型観光に直結する市内町巡り観光を確立するための様々な時間消費型イベントの試行と成果を得てきた。
これら立ち上がった各時間消費型イベントやプロジェクトを、市観光振興室が手掛ける西区手稲区小樽キャンペーンと連携し、より都会的センスを加味して発展させていくこと、につきる。
小樽に残された最大の資源・旧国鉄手宮線活用沿線再開発事業を組み込んだ、
道央圏200万の新規顧客開拓展開をする総戦略が、これからの課題となる。
危機という意識は、ややもするとまだ小樽には700万人のお客様が来訪されているということを、忘れがちである。
大なり小なりマスツーリズムに犯されて、そのことを忘れがちになる。
人口13万で、いまだ700万人のお客様に来訪いただく
観光20年のプラスの資産と札幌圏200万の消費人口という地勢的な有利さ
をどういかすのか、と大きく胸を張って考えたい。
それでも儲からないと没落してく観光都市は、よほど工夫がない、と笑われるだけである。
本土中国1億人の観光客・観光大爆発に対処しなければならないと、いわれる。
が、国際観光を語るとき、
「
日本人観光客の減少の穴埋めの、売上的に凌ぐための国際観光」
など、底が知れる。
国際観光は観光庁のインバウンド政策もあって、口にすれば響きはいい。
が、膨大な先行投資を求められる。
それならば、観光協会案内所に、本土中国語と台湾中国語のガイドこそを配置し、中国人に安心して来樽していただく受け入れ体制こそを先行投資的に戦略的に配置することこそが長い目でみて成果を生む。
そういう戦略的視点をもた先行投資こそ、行政が担わねばならない課題である。
このように日本の観光、産業観光、時間消費型観光の先進地から学ぶため、そのような日本全国の先進的市町村情報を持つ講師の招聘や小樽市観光プロジェクト推進会議の若い委員の視察、小樽観光協会傘下の観光事業者とのオープンな論議の実施を保障するべく、選択と集中で第2期小樽市観光プロジェクト推進会議へ重点的予算配分することを要望したい。
三年間という期間ではあったが
種は蒔ききったが、委員長としての同会議運営では忸怩たるものがある。
委員の各位が、これこそを試みるべきと提案頂いたものを、やりきれなかったという点である。
・各商店街執行部と小樽市観光プロジェクト推進会議との意見交流
・小樽市各部とのヒアリングと交流、
:訪れていただくお客様を気持ちよくお迎えするために「ゴミのおちていない」町を全市あげて実践する仕組みづくり、
など、小樽市観光プロジェクト推進会議の11人の委員をチーム編成をすれば、挑戦出来ないテーマではなかった。
委員長としての、会議マネージメント力量の不足を残念無念と歯ぎしりする。
11人それぞれ個性あるそうそうたる委員で、その各氏がより活発に気合いをもって動いて頂くシステムを小樽市観光プロジェクト推進会議内に構築できなかったことは猛省する次第だ。
第2期は、その反省から副委員長・事務局体制を確立し、委員長をサポートする副委員長を複数設置しての運営をしていけばと第2期小樽市観光プロジェクト推進会議に自己反省的に提案したい。