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    小樽運河・ポートフェスティバル・夢街、そして「水とり山」

    • 1995.01.01 Sunday
    • 00:01
    JUGEMテーマ:観光まちづくり
    夢街印半天2

     ↑ これから述べる、小樽運河保存運動の担い手の「小樽・夢のまちづくり実行委員会」のスタッフ用印袢纏。
     不祥蕎麦屋親爺がデザインした。
     夢という字に「まちづくり」の思いをかけ、腰柄は真っ白な波をモチーフにした。
     小樽の街に新しいウェーブを作るんだ、という、アラウンド還暦の年齢になると少々赤面せざるを得ないが、しかし型染めではあっても元気漲っているとは思っている。
     火消し袢纏からデザインを頂いたが、弊店火災で喪失し、デザインした自分が所有していないという体たらく・・・


     三〇年前の小樽運河保存運動の仲間が、今年になって二回ほど小樽で集っている。

    夢街・会長&副会長 30年前の運河の若者たちの中で一番の年嵩だった山口たもつ(現・小樽市議)は、既に2年前還暦を迎え、以後当時の年嵩たちが、続々阿羅還(アラウンド還暦)に突入している。

      ←ポートフェスティバル in おたる、第二回(1979-s54)の頃の小樽夢の街づくり実行委員会・佐々木会長と副会長。
     小樽夢の街づくり実行委員会会長・佐々木興次郎は本年還暦を迎え、副会長は、本年還暦を終えた。

     学生時代、生き疲れし、くたびれ果てた六〇代の人達を見るにつけ、
     「何でその歳まで生きているのか」
    と、暴言を吐いた私がその歳になってしまったわけだ。 (^^)

     その懐かしい仲間の集まりで、当時の小樽運河保存運動を担った若者たちが何を思いながら小樽のまちづくり市民運動に係わっていったのか、を出版したらという話になった。
     で、どうやら私は、「夢街」を書く担当になってしまった。

     ということで、試しに書くことにする。
     試し書きは、当然日々変わっていく。

     小樽運河保存運動から三〇年後の、今、2009年。
     小樽の祝津地区にある漁場建築群のなかで、外観はもっとも損傷が激しいが、しかし内部構造は堅牢なニシン番屋建築を、国交省助成事業でもって修復・再活用し、地盤沈下の激しい同地区のまちづくり拠点にしようと、趨り回っている。
     その事業主体は、小樽商工会議所・小樽市・観光協会・建設業協会・祝津たなげ会・しりべしツーリズムサポートなどで構成されている。
     文字通り、オール小樽だ。

     行政と経済界が一体となった運河埋立道路建設と名もない市民や若者たちが真っ向から11年間対立した三〇年前の小樽運河保存運動、それをを知っているものにとって、今「行政と経済界と市民運動の三位一体のまちづくり」など、つくづく刻の流れを感じる。

     その、にしん番屋修復の件で相談でとある会社の部長に説明をしているとき、横から、
     「あんな老朽化激しい番屋などを修復するくらいなら、小樽にはもっと修復しなければならない歴史的建造物があるっしょや
    と、現場で汗をかかない、自分の好みの仕事だけしかしないのでは有名な方が、したり顔で言い放たれてくれた。
     こういう、浅知恵で横から口を出すのを「蕎麦屋の湯桶」と蕎麦屋はいう。
     蕎麦屋職人が一番気嫌う人種だ。
     取っ手と注ぎ口は直角につき、横から口が出ていることから、「横から口を出す」ことの隠語だ。

     こういうときだけは、還暦で弾性疲労しズタズタに切れたシナプスが一発ですぐつながり、
     「言ってくれるじゃないの!」
    というパルスが猛烈な勢いでシナプスを駆け巡る。
     突然、ひとつの言葉が口から出た。
     「あのねぇ、誰に向かって小樽の歴史的建造物の保存や修復で説教たれようってわけ?
      ニシン番屋は祝津の『水とり山』なんだ!
      この俺に歴史的建造物で説教しようってんだから、知っているようねぇ、水とり山って」
    と、応えてあげる私がいた。

     相手は、「水とり山」などという滅多に聞かない言葉に面くらい、かといって蕎麦屋親爺風情如きにそれは何かと聞くのもプライドが許さず、以降は沈黙してくれた。


    ポートフェスティバル・スタッフ
     ↑ 第四回ポートフェスティバル実行委の面々、二日間のイベントを終え全会場の清掃を終えて、朝方疲労困憊で記念撮影

     ・・・そう、それは三一年前の、1978年(S53)秋のことだった。
     小樽の、とある蕎麦屋の石蔵の二階座敷に、二〇代の若者達が集り、深夜まで延々会議をしていた。
     集まっていたのは、小樽夢の街づくり実行委員会の面々
     
    その夏初めて開催した、小樽運河周辺を会場にしたまちづくりイベントである、「ポートフェスティバル in おたる」を開催し、八万人もの来場者を得る成功をおさめた若者たちだった。
     のちに「夢街の奴ら」と市内で呼ばれるようになる、若者達だった。
     延々と話されていた議題は、自らが開催会場とした小樽運河を巡る保存運動に、ポートフェスティバルがどう係わるのか、だった。
     ポートフェスティバルは、30年経った今振り返れば11年の小樽運河保存運動史の中で決定的なターニングポイントになったまちづくりイベントだった。
     が、誕生間もない時期、まだ様々な思いの若者達で構成されていて、小樽運河保存運動に明確な態度と姿勢も持ってはいなかった。
     論争が空回りし、テンでに話を始めた頃合いを見て、若者達のシンクタンク的存在だった北大足達研究室の院生の一人が、訥々と語り出した。

     こういう話だった・・・・、

    mizutoriyama01

      伊豆大島の一番大きな町・元町が大火災(1965年)にあい壊滅的状態となり、政府は災害救助法を適用した。
      政府が災害直後の応急的な生活の支援策を提示しようとしたとき、
      島民が「いの一番」に望んだのは、そんな一方的支援策なんかじゃなかった。
      島民が皆で集まって話し合って出したのは、
      まず
      「自らの力で三原山の砂漠地帯に『水取り山』(=溜め池)を建設する
     と、いうことだった。
      慢性的な水不足解消もあったが、住民が自力で建設する町民全体の「水とり山」を作ること、それこそが、町民ががどんな復興策よりもまず望んだことだった。
      できあがる「水とり山」をまず町民自身がイメージし、それに向かって、皆で纏まることで自力で建設するって。
      自らの力で水とり山をつくる
      それは、自らの地域を,自らの手でつくり上げてゆく哲学であっただろうし、
      そもそも水とり山という場がもつ根源的な力を再発見することであっただろうし、
      他人の手による復興策ではなく、島民の手になるまちづくり、だったのだ。
      そこにあるのは、
      機械力より多くの雑多な人々の力であり,
      知識よりは知恵をつかい、
      速さよりは持続力であり、
      理性よりは情熱や思いだった。
      つまり、島民が「水とり山」という姿形に求めたものは、実は島民が纏まるためのシンボル性だったのじゃないか。
      政府や災害の専門家達は、伊豆大島の島民がそんな溜め池づくりを求めるなんて想像もしてなかった。
      一方、政府が支援してくれるというメニューにたかるんじゃなく、皆が今こそまとまることを優先した島民の凄さがそこにある。
      では、小樽の人にとっての水とり山ってなんなんだろうか。
      小樽運河こそが小樽市民の「水とり山」、・・ではないか。
      それをポートフェスティバル自らが、明らかにしたんじゃ・・ないのか。
      機能面で時代遅れの港湾設備から近代的道路になるより、
      これからの小樽のまちづくりをしていく僕らの依って立つ根っこが、小樽の「水とり山」・小樽運河なんじゃないのか。

     ・・・と。
     なにせ、三〇年前に聞いた話。
     腐臭を放ち浮腫が生じアルコールの海を漂流する記憶は、引き出しの奥底に埃にまみれ褶曲山脈のように曲折し堆積してしまい、時たま耳にする言葉が記憶に地震を起こし、脈絡なく回路が繋がってしまう。
     が、とにかく、「水とり山」とはそんな話だった。

     その場にいたポートフェスティバルの若者は皆、その「水とり山」の話に圧倒された。
     その言葉に、夢街は組織された。
     私も魅了された。


     ・・・私が帰省した頃、創設当初は二〇〇〇人近い会員数を誇った小樽運河を守る会も月例会に十数人しか集まらない少数派運動に転落していた。
     そしてその小樽運河保存運動の運動量では、「守る=保存=凍結的保存」の運動にしか聞こえてこず、運動路線も「かけがえのない先人達の遺産を守ろう」という趣味的文化的情緒主義的運動的にしか、見えなかった。
     小樽運河を守る会に共鳴する小樽市民にはそうしか見えなかった。

     というか、ウォーターフロント開発という言葉自身も事例もまだ日本にはなく、歴史的建造物保存は神社仏閣文化財保存としかイメージされてない時代だった。
     1975年(S50)の文化財保護法が改正された。
     それまでは建物単体でしか保存出来なかった歴史的建造物を、面的な広がりのある空間として保存するために改正されてはいたが、
    伝統的建造物群保存地区という概念は北の一地方都市にまで到達していなかった。
     世は大平内閣の「地方の時代」ムードではなったが、北の一地方都市にまで伝播はしていなかった。

     犬山市の明治村のように歴史的建造物を移築修復保存し、その歴史性を学び、かつ移築工事で歴史的建造物修復技術を蓄積していくような、博物館的保存の重要性は理解できた。
     が、町の賑わいづくりや元気回復にストレートに繋がらない、いわゆる単体保存や凍結的保存では、小樽が抱えていた「斜陽のどん底」からの脱却への回答には、なり得るはずもなかった。
     にもかかわらず、小樽運河を守る会で出会う画家や写真家などは、
     寂れた小樽運河がいい、
     あのヘドロがたまった小樽運河水面の色合いこそ絵になる、
    迄は良かったが、
     荒廃し廃れていく姿こそが小樽の原風景で、小樽人はその廃れていく姿を見守るだけだ、
    などという、趣味的情緒的保存の社会性のなさに呆れ果てていた。
     私はひそかにそのように語る仲間達を、愛情を込めて「ブルース派」と呼んでいた。
     
     が、そのような保存派の中にある1傾向に組みする気など、一ミリもなかった。

    セーヌ川
     私と言えば、「兼高かおるの世界の旅」で垣間見たフランス・セーヌ川にある、護岸が階段上に水辺まで続き子供が膝までの水辺で遊ぶような、そんな親水性の高い水辺空間を夢見たが、それには魚が住む水質が問われたし、

    水辺のレストラン

     アムステルダムの運河沿いのカフェやレストランにその姿をアナロジーし、埠頭の側のチョコレート工場跡が再開発されて若者が大挙押し寄せる文化発信の空間となっている米国・ジラデリーを小樽運河周辺にと夢見ていた。
     そんな私が、黙って小樽運河が廃れていくのを見守るのが小樽人だ、という化石のような志向のブルース派の人達と、心底一緒にスクラムなど組めるはずもなかった。

     まだ、北大院生の石塚雅明や柳田良造や森下満そして山口たもつとは出会ってはいなかった。 せいぜい同じ町内の佐々木興次郎と会話するくらいで、彼らの主張は私にもそして市民にも届いておらず、「勝利する何かを内包する運動」とはみえなかった。

     学生運動の残滓で、そんな小市民的市民運動に今さら入っていくものか、とも実は思い込んでいた。
     小樽運河保存運動は、最小限の獲得目標であって最大限獲得目標は別じゃないのか。 
     小樽運河保存運動をテコに「小樽の街の元気と賑わいをどう取り戻すのか」こそが最大限の獲得目標ではないか。
     その最大限獲得目標を持ち得ないない運動は、そもそも最小限目標すら勝ち取れないだろうが、とニヒった目でしかみていなかった。

     だから、道路促進派が小樽運河保存運動側を「アカ」とレッテルを貼るのを許してしまうような、強制されたとはいえ自ら少数派の道しか進まない小樽運河を守る会などに入会してどうなる、新しい若者の運動体こそを造った方がいい、と小樽運河を守る会に入ろうとしながら躊躇う佐々木を揺さぶっていた。

     私も若かった。
     そういいながら、自分ならと、勝つための事例を探し求めていた。
     が、凍結的保存に対置する新しい質の運動と言葉は自前では持てず、書店でその種の書籍を求めるが、当時はせいぜいあって「町並み保存」本がわずかにあっただけだった。
     
     だったらと、北海道読書新聞に敢えて挑発的に「歴史的環境保存(凍結的保存)からの訣別」などという駄文を書いていた。

     そんなある日、書店の法律関係書棚から「ジュリスト」を取った。
     「住民運動特集号」で住民運動訴訟の紹介をしており、そのなかに「まちづくり」という言葉を見つけ、目が釘付けとなり唸った。
     都市計画は、行政と専門家のよそものの言葉でしかなく、その言葉を聞けば聞くほど、日本に本当の都市計画などあったのか、と叫んだものだった。
     だからこそ、今では汚れちまった感がある「まちづくり」という言葉だが、三〇年前は、ページの文字の山の中で、神々しいほど新鮮に光輝いていた。
     まるで、動的で、主体的で、新しく創り築いていく、という感が盛り込まれた言葉と映った。

     夢街が出来、町中を走り回るようになり「まちづくり」という言葉が知れ渡っていく時期に選挙があり、とある政党が「まちづくり」という言葉を選挙カーで叫ぶようになった。
     本来ならその「まちづくり」という言葉が、市内に広がることを喜ぶべきだった。
     が、折角、政党等とは独立した市民運動という夢街への評価が、また特定政党が使用することでそれと一体視され「アカ」とレッテル貼られるという危惧から、その政党事務所に行き「『まちづくり』という言葉は、夢街が言っている言葉で、選挙目当てに使用するのは控えて欲しい」とねじ込み、驚いたことに彼らはそれを受け入れ、暫く使用しなかった。
     保守系市長候補の選対事務所にも同じように行き、同様の要請した。
     小樽の経済人が選対事務所に詰めていて、皆、にやにや笑ってくれた。
     「候補や選挙カーはまちづくりという言葉は使用していない、が、そもそも『まちづくり』というそれは、君たちが作った言葉なのか?」
    と、鋭く問うてきた選対幹部がただ一人いた。
     「政党会派全部が使うなら大歓迎だが、特定政党だけが使うのは遠慮していただきたい」
    と、若さだけで無理を通した。
     のちに、小樽商工会議所で運河埋め立て・道路建設路線から保存再生への大転換の立役者となった副会頭・小樽作業衣社長の大野友暢氏がその人だった。

     兎に角、そのくらい、まだ「まちづくり」という言葉は初めて聞く言葉であり、新鮮だった。 そしてそのくらい、政党色が付くことにナーバスだった。

     その「まちづくり」という言葉を冠した若者の団体をつくると聞き、そんな面白い奴らならと接近したくなっていた。
     
    西山卯三氏石造倉庫倉庫セミナー
     その機会が、ポートフェスティバル第一回のプレで開催された「↑ 小樽石造倉庫セミナー」だった。
     札幌の設計事務所や建築会社に勤める若手建築家のグループ・ハビタが主催する、小樽で初めて石造倉庫を会場に使ったセミナーだった。

    第一回石造倉庫セミナーポスター
     石造倉庫の壮大で緻密な小屋組み空間、実に小樽らしい空間の下でのセミナーだった。
     椅子席の一番後ろに積んであったムシロに座り、その小屋組み空間を見上げていた。
     申し訳ないが、西山卯三教授の「世直し観光」提起や講師陣の講演より、こんな石造倉庫の使い方を発想する若い連中が北海道にいたことの方が、嬉しかった。
     
     おかっぱ頭にツナギ姿で会場設営をし、同じような匂いを放ち目がぎらつくように輝いていた若者がいた、それが山口たもつだった。
     佐々木が「小樽運河を小樽(経済)復活のテコにしなきゃならんと小樽運河を守る会で一人叫んでいる人です」とコメントしてくれた。
     山口が三一歳、私は三〇歳になっていた。
     「アイツだな。」という嗅覚が働き、一度話さんとな、となり、夢街を結成する直前、山口・佐々木・私と初めて会うことになった。
     おそらくこれから何年も続く関係になるのだから、連れ合い同士も同じ関係になんなきゃ嘘だろうと、いきなり山口・佐々木・私と三夫婦六人が、私の2DKの狭いアパートに集まり、一瞬で意気投合し、深夜まで呑み語った。
     以来11年、連れ合いたちは店や家庭を放り投げ趨り回る亭主たちに対抗し「未亡人クラブ」を作り呑み語り合うようになり、私は”BLACK WIDOWの会”と一人命名した。


      ・・・私が小樽に帰省したのは、二七歳だった。
     東京生活での唯一の財産は、チッキで実家に送ったダンボール一〇数箱の書籍だけ。
     春四月、七年半前と全く変わっていない旧国鉄小樽駅のホームに降りた私は、それまでの自堕落な生活で栄養失調からくる胃潰瘍・十二指腸潰瘍で数度入院し、やせ細りかろうじて体重50キロはあったものの、目は吊り上がりぎらついていた。
     履き古したジーンズとスニーカーに、歴戦で活躍しすり切れかぎ裂きだらけのジージャン姿で、手ぶらだった。 
      旧国鉄小樽駅の改札を出て見上げたロビーの天井には、七年半前と同様まだ羅針盤があり、それを見上げながら外に出ると、まだ駅前再開発途中で歩道橋もなくまっすぐ一直線に小樽港と防波堤が見え、荒れて白波が防波堤の上を走り抜ける、小樽人が言うところの「ウサギが走る」雲行きだった。
     天気の雲行きだけでなく、心も荒れてササクレだっていた。
     天パの肩まで伸ばした長髪が風になびいた。
     実家は、駅前にあった。 
     まっすぐ帰るのは、まるで《 敗残兵 》だなと自嘲し、駅から中央通りを下り、運河に足を伸ばす。

     かつてウグイを釣り、ときには泳いだ運河。
     その小樽運河は、ヘドロが堆積し水面まで顔を出し、そこにカモメが羽を休めていた。
     運河の水際の路肩という路肩は崩れに崩れて雑草が生え、ありとあらゆるゴミが至る所に捨てられ、それを誰もとがめ立てする風もなかった。
     海岸線に沿って海を埋め立てたので、運河に沿った道路は岸辺なりに湾曲し、歩を進めれば進めるほど眼前の景色は次々に変って行き、歩き疲れを感じさせないでくれた。
     東京の一直線のビル街のように、いつになったら目的地に着くのか、いつになったら家並みは途切れるのかという精神的疲労感などは、無縁の運河と石造倉庫群だった。

    小樽運河の倉庫群
     その運河にそって、何の装飾もない、切妻の美しい勾配屋根の石造倉庫群が、緩いカーブの道なりに並び立っていた。
     かのウィリアム・モリスなら、まるで大地の地中からそのまま生え出た、と言うであろうように、それはまだそびえ立っていた。
     近代工業が生産する建築には絶対ない、
     ブルドーザーの力では造れない、
     コンクリートミキサー車の力でも造れない、
     クレーン車で鉄骨材を釣り上げても出来上がらない、
     機械力といったものに一切頼らない、
     機械ではなく全て人の手で築いたのだと胸を張り、
     それは大地から生え出て根付いたようにそびえ立っていた。
     その石造倉庫に、
     「帰ってきたか? これから小樽でどう生きるのだ」
    と語りかけられ、いきなり、
     「帰ってきた小樽から、わが小樽か」
    とひとりごちしていた。
     ・・以来ポートフェスティバル・夢街に参加するまでの三年、当時小樽で耳にする話は、自虐的で懐古趣味な小樽の話だけだった。


     が、その「水とり山」の話だけは、久方振りに聞く、めくるめく眩しさを秘めていた。

     ただ反対のための反対運動ではない、運河周辺の保全と再生から小樽のまちづくり展望を引き寄せる、自分たちの発想と力による運動、まちづくり市民運動だ、と。
     そう考えれば、若者たちが自力で開催したポートフェスティバルが、当時の小樽の街に与えた影響を捉えかえすことができた、のだ。

     小樽運河保存運動への若者達の関わりは、ここから始まった。
     そして私の小樽運河保存運動への関わりも、ここから始まったのだ。
     
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