私の学生時代、演劇に夢中になる学生達は結構アナーキーな反面、あらゆる事象を演劇や祝祭や儀礼として収斂させてしまう傾向になりがちで、私には支配・被支配の関係や国家の存在などを軽視しているように見え、それにのめり込まないできた。
というよりも、政治から逃げ込む、ためにする演劇志向に思えた。
爾来、演劇はかじってきていない。
が、いわゆる理論というものは、この演劇的ニュアンスから脱皮しようと、自然史的過程や唯物論的過程を経て、機械的システム論的な世界の色彩を強め、結果逆に干涸らびていったのではないか。
であるがゆえに、そのような社会的理論は、いつしか国や官僚やコンサルタントなどによって地域診断などのツールに転用され、対象の地域にどのような人間がどのように生活をしているかなど一切見向きもせず切り捨て、ひたすら歴史的必然や効率によって地域を客観主義的に規定し、一見快刀乱麻を断つがごとく結論づけ、地域人にとっては無謀とも言える解決策を強制してきた。
国や官僚やコンサルタントの地域診断報告書に登場する人間は、おおかた
「Nobody=誰でもないヒト」、
「Anybody=誰でもよいヒト」
であって、
「Somebody=誰かであるヒト」ではなかった・・・。
しかし、地域人は、顔も名もある人達である。
歴史的必然や効率性にとらわれた者達が一方的にみるマスでしかない地域ヒトが、実は面白真面目に仕事と遊びを共有し、涙し笑う、無駄の効用を享受する一人一人の人間なのだ。
そうした目で見ると、理論的で冷たい客観的数字の世界でひと塊だった地域が、殺していた息吹を吹き返し、鮮やかに際だち色づく。
「 都会の人間より俺たち田舎の人間の方がよほど大人だ。
都会に住むやつらはなんでも気が合う者同士だけでの付き合いしかせん。
が、俺たち田舎人は、近隣と好き嫌いを超えたところで付き合っていかないと
全てがうまく回らないし、生きていけない。
そんな生活が『無駄なライフスタイル、地域社会に自由がない』などと都会人
の奴らは言ってきた。
が、どうだ、今では無駄には効用が沢山あり、意味があることが判明し、
大災害などのときどれだけその無駄と言われた近所付き合いが力を発揮した
か。
もう「地域社会からの自由」じゃなく「地域社会への自由」の時代だ。
俺たち田舎人こそがはるかに都会人より大人で中身のある生活をしてきたん
じゃねぇのかい。」
という、わが後志にもこう言い放つ人々が出てきている。
実は、ある報告書を送って頂き、ページをめくりながら、こんなことをふと感じた。
送って頂いた報告書は、
「2008 法政大学社会学部社会調査実習報告書
都市ガヴァナンスの社会学的実証研究(2)
堀川三郎・森久聡編」
である。