小樽には日本で三番目に敷設され、唯一現存する旧国鉄手宮線がある。
市民が誇る市立の文学館・美術館が入居する市分庁舎、その裏庭横を旧国鉄手宮線が走る。
地面を真っ直ぐ南北に延びる旧国鉄手宮線のレールと枕木。
丁度130年前、北海道で最初の汽笛がその手宮線・旧幌内鉄道で響き渡った。
やがてそのレールは空知の産炭地や全道の町々に繋がり、近代化の、そう「配電盤」となった。
当時のエネルギー・石炭はこの線路を通り、小樽手宮にあった巨大な高架桟橋から船積みされて、京阪神工業地帯に搬出された。
その旧国鉄手宮線沿線に四本のポプラがそびえ立っていた。
真っ直ぐ垂直に天高く青空に聳える緑豊かなポプラであった。
そばの市分庁舎のポストモダンな歴史的建造物と反比例する今では仲々街中ではみられなくなった見事なまで老朽化した家並みが続いていた。
それらが一体となり、縦と横に構成する景観。
それをどれほどのカメラマンや画家が題材にしてきたことか。
そして、ポプラは春に花を咲かせ、花が終わるとすぐに綿毛付きの種子を大量につけ、この種子が風にとばされて空を舞う。
並木など多数のポプラのある所では、地面が真っ白になることもある。
それを柳絮(りゅうじょ)と過去多くの詩人が唱った。
春の風物詩でもある。
そしてコンクリート壁を這うツタは市内でももっとも綺麗に紅葉し、カメラマンがそのツタを撮影するのが秋の風物詩になっていた。
市民意識とはシンプルであるが面妖でもあるとつくづく思いながら、先月伐採されたそのポプラを思い浮かべている。
何か一つのテーマが持ち上がりそれに問題意識を持つ市民が運動体をつくる。
運動内部の傾向は、当然様々である。
その意見の違いを乗り越えた時、その市民運動はダイナミズムを得て裾野が拡大していく。
三〇有余年まちづくり市民運動に身を置いた私としては、今あるまちづくりの段階にそのテーマが明確に位置づけられ、どう積極的に町の将来像に結びつけていくのかという方向性を内包していないと、正直に言うと、もう身体と心がついていかない。
現に担う市民運動や観光まちづくり事業と自分の商売とで、もうはばけそうである。
が、身体はひとつ。
そしていつの間にかアラウンド還暦で、日頃の不摂生とヘルニア腰で、若い頃のように次から次に新たな運動参加は限界にきている。
今の私が老骨に鞭打って係われるとしたら、
・地に足ついた冷静な論議
・対案提起をする姿勢と努力
・運動主体が、町やエリアの今と将来に「責任」を持つ
ことを内包した運動だ。
そう、その
対案提起能力と
運動に係わる者が持たねばならない責任についてである。
30年前の町を二分する小樽運河保存運動を、保存運動主体は「対案提起型」運動と位置づけた。
が、マスコミですら「運河埋立反対運動」と表現し、単純反対運動と対案提起運動のその違いは仲々理解されなかった。
ある意味、その理解を得るため11年間という月日を要した運動でもあった。
その小樽運河保存運動の主体側には、大きく二つの潮流があった。
私はそれを、凍結的保存派と動的保存派と呼んでいる。
凍結的保存派は、運動初期から参加されてもっとも困難な時期を担った高齢の婦人達と参加がもっと新しいがマイナー主義的傾向の若者たちで、運動の最紅葉期にとある政党がくっついた。
そういう傾向の仲間は、運河が
「兎に角残ればいい」
「埋め立てを阻止できればいいだけだ」
とし、町の経済などを考慮した「まちづくり」を言及する運動になったら行政や経済界に丸め込まれる危険性がある、とした。
小樽運河周辺を「観光拠点に」と主張したとき、それは「資本の論理」だと化石のような言葉を宣ってもくれた。
この路線は結局小樽運河保存運動内部でも多数派を形成出来ず、路線的に敗北していたが運動の最後まで生き残って、最後の大高揚期に保存運動を分裂させた。
一方、動的保存派は、ただ単に残せばいいでは良しとせず、町全体を対象とし『まち』自身ををどう元気づけるのかという視点を持とうとし、他の町にはない歴史的建造物や歴史的景観に磨きをかけて、それでもって賑わいを取り戻し、斜陽から脱却する起爆剤にしようと提案し続けた。
しかし、残念なことにこの2つの路線の違いは、結局11年の歳月をかけた小樽運河保存運動でも相交わることはなく、少数派運動時は分裂するエネルギーも余裕もなかったが、最後の最高揚時になって小樽運河保存運動を分裂させ、結果それを敗北させた。
凍結的保存派は、その後小樽のまちづくりに一切係わることはなかった。
ここまでなら、当時全国にあった様々な住民運動・市民運動・町並み保存運動の敗北という、歴史の中に埋もれてしまうものだった。
しかし、小樽の場合、その動的保存派の運動は、ポートフェスティバル実行委、サマーフェスティバル、ウィンターフェスティバル、そして今日の雪あかりの路として、いわゆるまちづくり運動を志向する部分であり、それが層として担われ、連綿とその想いと質は継承されてきている。
そう、それが小樽のまちづくり市民運動なのである。
又、町の中には「原風景派」と呼べばいい1傾向があった。
要は、
・寂れきった雰囲気・景観こそが小樽だ。
・小樽運河のあのよどんだ色合いと崩れ崩落しそうな石積み護岸がたまらなくいい。
・そのような寂れ廃れていく姿こそが、小樽の原風景である。
・だから、そのままの姿で残し、退廃していけばいい、それを見守るのが小樽人だ。
と、実に羨ましいほど情緒的で、ブルース的感覚であった。
わからないわけではないし、そういう情緒志向は理解出来る。
が、それは社会性というものが決定的に欠如した傾向だった。
今はマイナーでも将来はメジャーを目指すのではなく、マイナー主義化、マイナーを固定化し美化する傾向である。
ある種の小気味よさがあるものの、それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけであった。
このように指折り数えると、時代による市民意識は様々なのである。
さて、にわかに起こった市分庁舎「ポプラ伐採反対」の市民運動である。
私にはこの小樽運河保存運動時の主体の側にあった様々な傾向を思いださせてくれる。
つまり、ただ伐採反対を叫ぶだけではなく、そのまま残すとしたら今後どう維持管理するのかという対案を提起する、そういう責任をもった質の運動展開に運動主体自身が発展させ得るのか、と大変注目した。
今回のポプラ伐採反対運動を担った方々は、そこまで展開する時間的余裕がなかったのだろうか。
それに挑戦しようとされたのか。
どうやら対案提起型の運動展開を出来ないがまま、多数派を形成できず、結果伐採完了という現状に至ったのは、残念でならない。
私が参加する小樽緑のまちづくりの会でも、ポプラ伐採問題で様々に討論がされてきた。
全員誰もが、そびえ立つポプラを切るのは忍びない、とした。
その討論の中で、伐採反対の人もおられ伐採反対の署名活動に参加された仲間もおられた。
そして、切るのは忍びないが致し方ないけれど新しい緑の空間を、とする人もおられた。
結論から言えば、私も後者の立場をとった。
この緑のまちづくりの会に参加するとある市議が、
「切るのは忍びないが、伐採やむなし、で、新たな緑の創景をするべき」
と公的場で態度表明した。
と、
緑のまちづくりの会「全体」がそうだ、と今になって決めつけられているようである。
緑のまちづくりの会として統一した見解は持たなかったのにである。
要は敗北の理由を厳しく自己切開するのではなく、それは切ないので、他者に求め押しつける、よくある事例に成り下がったわけだ。
こういう結末は、小樽運河保存運動時と類似している。
この種のレッテル貼りは頂けないし、私には一番不愉快である。
まるで小樽運河保存運動のときの、「保存派はアカである的レッテル貼り」同様でる。
異見を許さずスポイルする、平準化の論理を強制する。
今回は、市民の側がそれを持ち出してきているのが違いだが、その分全く不愉快極まりない。
これがまかり通るのであれば、営々30年の小樽のまちづくり市民運動は、実に軽く深度もなく懐も深くない「
反対のための反対運動」しか出来ない町というレベルに成り下がってしまう。
そういう観点で市分庁舎ポプラ伐採反対運動を見てみたい。