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    対案提起能力・ポプラ伐採問題に寄せて

    • 2010.11.07 Sunday
    • 06:54
    JUGEMテーマ:観光まちづくり
      市分庁舎横のポプラ画像を使ったポスター

    小樽には日本で三番目に敷設され、唯一現存する旧国鉄手宮線がある。
    市民が誇る市立の文学館・美術館が入居する市分庁舎、その裏庭横を旧国鉄手宮線が走る。
    地面を真っ直ぐ南北に延びる旧国鉄手宮線のレールと枕木。
    丁度130年前、北海道で最初の汽笛がその手宮線・旧幌内鉄道で響き渡った。
    やがてそのレールは空知の産炭地や全道の町々に繋がり、近代化の、そう「配電盤」となった。
    当時のエネルギー・石炭はこの線路を通り、小樽手宮にあった巨大な高架桟橋から船積みされて、京阪神工業地帯に搬出された。
    その旧国鉄手宮線沿線に四本のポプラがそびえ立っていた。
    真っ直ぐ垂直に天高く青空に聳える緑豊かなポプラであった。
    そばの市分庁舎のポストモダンな歴史的建造物と反比例する今では仲々街中ではみられなくなった見事なまで老朽化した家並みが続いていた。
    それらが一体となり、縦と横に構成する景観。
    それをどれほどのカメラマンや画家が題材にしてきたことか。
    そして、ポプラは春に花を咲かせ、花が終わるとすぐに綿毛付きの種子を大量につけ、この種子が風にとばされて空を舞う。
    並木など多数のポプラのある所では、地面が真っ白になることもある。
    それを柳絮(りゅうじょ)と過去多くの詩人が唱った。
    春の風物詩でもある。
    そしてコンクリート壁を這うツタは市内でももっとも綺麗に紅葉し、カメラマンがそのツタを撮影するのが秋の風物詩になっていた。

    市民意識とはシンプルであるが面妖でもあるとつくづく思いながら、先月伐採されたそのポプラを思い浮かべている。

    何か一つのテーマが持ち上がりそれに問題意識を持つ市民が運動体をつくる。
    運動内部の傾向は、当然様々である。
    その意見の違いを乗り越えた時、その市民運動はダイナミズムを得て裾野が拡大していく。

    三〇有余年まちづくり市民運動に身を置いた私としては、今あるまちづくりの段階にそのテーマが明確に位置づけられ、どう積極的に町の将来像に結びつけていくのかという方向性を内包していないと、正直に言うと、もう身体と心がついていかない。
    現に担う市民運動や観光まちづくり事業と自分の商売とで、もうはばけそうである。
    が、身体はひとつ。
    そしていつの間にかアラウンド還暦で、日頃の不摂生とヘルニア腰で、若い頃のように次から次に新たな運動参加は限界にきている。

    今の私が老骨に鞭打って係われるとしたら、
    ・地に足ついた冷静な論議
    ・対案提起をする姿勢と努力
    ・運動主体が、町やエリアの今と将来に「責任」を持つ
    ことを内包した運動だ。

    そう、その対案提起能力運動に係わる者が持たねばならない責任についてである。

    30年前の町を二分する小樽運河保存運動を、保存運動主体は「対案提起型」運動と位置づけた。
    が、マスコミですら「運河埋立反対運動」と表現し、単純反対運動と対案提起運動のその違いは仲々理解されなかった。
    ある意味、その理解を得るため11年間という月日を要した運動でもあった。

    その小樽運河保存運動の主体側には、大きく二つの潮流があった。
    私はそれを、凍結的保存派と動的保存派と呼んでいる。

    凍結的保存派は、運動初期から参加されてもっとも困難な時期を担った高齢の婦人達と参加がもっと新しいがマイナー主義的傾向の若者たちで、運動の最紅葉期にとある政党がくっついた。
    そういう傾向の仲間は、運河が
    「兎に角残ればいい」
    「埋め立てを阻止できればいいだけだ」
    とし、町の経済などを考慮した「まちづくり」を言及する運動になったら行政や経済界に丸め込まれる危険性がある、とした。
    小樽運河周辺を「観光拠点に」と主張したとき、それは「資本の論理」だと化石のような言葉を宣ってもくれた。
     この路線は結局小樽運河保存運動内部でも多数派を形成出来ず、路線的に敗北していたが運動の最後まで生き残って、最後の大高揚期に保存運動を分裂させた。

    一方、動的保存派は、ただ単に残せばいいでは良しとせず、町全体を対象とし『まち』自身ををどう元気づけるのかという視点を持とうとし、他の町にはない歴史的建造物や歴史的景観に磨きをかけて、それでもって賑わいを取り戻し、斜陽から脱却する起爆剤にしようと提案し続けた。

    しかし、残念なことにこの2つの路線の違いは、結局11年の歳月をかけた小樽運河保存運動でも相交わることはなく、少数派運動時は分裂するエネルギーも余裕もなかったが、最後の最高揚時になって小樽運河保存運動を分裂させ、結果それを敗北させた。
    凍結的保存派は、その後小樽のまちづくりに一切係わることはなかった。

    ここまでなら、当時全国にあった様々な住民運動・市民運動・町並み保存運動の敗北という、歴史の中に埋もれてしまうものだった。 
    しかし、小樽の場合、その動的保存派の運動は、ポートフェスティバル実行委、サマーフェスティバル、ウィンターフェスティバル、そして今日の雪あかりの路として、いわゆるまちづくり運動を志向する部分であり、それが層として担われ、連綿とその想いと質は継承されてきている。
    そう、それが小樽のまちづくり市民運動なのである。

    又、町の中には「原風景派」と呼べばいい1傾向があった。
    要は、
    ・寂れきった雰囲気・景観こそが小樽だ。
    ・小樽運河のあのよどんだ色合いと崩れ崩落しそうな石積み護岸がたまらなくいい。
    ・そのような寂れ廃れていく姿こそが、小樽の原風景である。
    ・だから、そのままの姿で残し、退廃していけばいい、それを見守るのが小樽人だ。
    と、実に羨ましいほど情緒的で、ブルース的感覚であった。
    わからないわけではないし、そういう情緒志向は理解出来る。
    が、それは社会性というものが決定的に欠如した傾向だった。
    今はマイナーでも将来はメジャーを目指すのではなく、マイナー主義化、マイナーを固定化し美化する傾向である。
    ある種の小気味よさがあるものの、それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけであった。

    このように指折り数えると、時代による市民意識は様々なのである。

    さて、にわかに起こった市分庁舎「ポプラ伐採反対」の市民運動である。
    私にはこの小樽運河保存運動時の主体の側にあった様々な傾向を思いださせてくれる。
    つまり、ただ伐採反対を叫ぶだけではなく、そのまま残すとしたら今後どう維持管理するのかという対案を提起する、そういう責任をもった質の運動展開に運動主体自身が発展させ得るのか、と大変注目した。
    今回のポプラ伐採反対運動を担った方々は、そこまで展開する時間的余裕がなかったのだろうか。
    それに挑戦しようとされたのか。
    どうやら対案提起型の運動展開を出来ないがまま、多数派を形成できず、結果伐採完了という現状に至ったのは、残念でならない。

    私が参加する小樽緑のまちづくりの会でも、ポプラ伐採問題で様々に討論がされてきた。
    全員誰もが、そびえ立つポプラを切るのは忍びない、とした。
    その討論の中で、伐採反対の人もおられ伐採反対の署名活動に参加された仲間もおられた。
    そして、切るのは忍びないが致し方ないけれど新しい緑の空間を、とする人もおられた。

    結論から言えば、私も後者の立場をとった。
    この緑のまちづくりの会に参加するとある市議が、
    「切るのは忍びないが、伐採やむなし、で、新たな緑の創景をするべき」
    と公的場で態度表明した。
    と、緑のまちづくりの会「全体」がそうだ、と今になって決めつけられているようである。
    緑のまちづくりの会として統一した見解は持たなかったのにである。

    要は敗北の理由を厳しく自己切開するのではなく、それは切ないので、他者に求め押しつける、よくある事例に成り下がったわけだ。

    こういう結末は、小樽運河保存運動時と類似している。
    この種のレッテル貼りは頂けないし、私には一番不愉快である。
    まるで小樽運河保存運動のときの、「保存派はアカである的レッテル貼り」同様でる。
    異見を許さずスポイルする、平準化の論理を強制する。
    今回は、市民の側がそれを持ち出してきているのが違いだが、その分全く不愉快極まりない。
    これがまかり通るのであれば、営々30年の小樽のまちづくり市民運動は、実に軽く深度もなく懐も深くない「反対のための反対運動」しか出来ない町というレベルに成り下がってしまう。
    そういう観点で市分庁舎ポプラ伐採反対運動を見てみたい。

    続きを読む >>

    合掌

    • 2010.09.30 Thursday
    • 15:16
    小樽観光協会会長で元北海道副知事の眞田俊一氏が9/29午後逝去された。

    私たちが展開している後志広域観光推進団体の
     一般社団法人・しりべしツーリズムサポート
    も、その代表理事を快く快諾していただいて、誕生した。

    残念無念、歯ぎしりするだけしか出来ない。


    マーティン・ルーサー・キング jr 牧師が怒ってる!

    • 2010.09.16 Thursday
    • 16:01
     マーティン・ルーサー・キング

     ・・・しかし、なぁ。
     心情としては市民運動アガリの管を応援すべきなんだろうが、もうその臭うが如き臭い媚び演説には滅入るよりない。
     それにしても民主党代表選の演説!
     ・・・両者とも聞くに堪えなかった。
     
     それも、わがマーティン・ルーサー・キング jr 牧師の名スピーチ、
     I Have a Dream」(私には夢がある)
    を、真似るとは!
     政治とカネで逃げ回る張本人が、社会改革に一命を賭すという決意を表わすと同時に自身抗戦を意図し採用したフレーズであるのだろうが、並み居る400人以上の民主党議員が、そもそも胸に響かない連中ときているから、一層、虚仮た演説になった。

     小沢一郎には同様の過去がある。
     小沢一郎が民主党の代表になったとき2006年の演説だ。
     巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『山猫』(1963年)で、バート・ランカスター演じるイタリアの老公爵が、クライマックスで、なぜ革命軍を支援するのかと尋ねられ、
      『変わらず生き残るためには、変わらなければならない』
       "We must change to remain the same"
    と答えた。
     それをパクリ、歴史上長く繁栄した国家は例外なく自己改革を成し遂げているとし、日本社会や民主党も改革の必要があるし、まず「私自身が変わらなければならない」と演説した物だった。
     流石に二度は使えず、思案したのか「私には夢がある」をパクったわけだ。
     一番真似して欲しくない人物がやってのけたわけだ。

     が、唯一、それに反応したのが菅だった。
     「小沢さんと同じく私にも夢があります」
    と、その場でアドリブで入れた。
     が、それは、
     「多分キング牧師の名スピーチであることを読み取ったのではなく、毎度の揚げ足取り的反応」と、友人は看破した。
     党員・サポーター対象の演説であるから、
    「わが党の中には会社員から経営者まで、そして、公務員、知事、市町村長経験者、地方議会、国内外の議員、議会スタッフ、議員秘書、政党職員、労働組合、シンクタンク、金融機関、弁護士、裁判官、検事、公認会計士、税理士、フィナンシャルプランナー、社労士、司法書士、行政書士、気象予報士、ジャーナリスト、アナウンサー、ツアーコンダクター、派遣社員、神主、僧侶、牧師、医師、歯科医師、医療介護関係者、看護師、薬剤師、団体職員、学者研究者、学校の塾の経営者、学校幼稚園の先生、保育士、俳優、スポーツ選手、農業、林業、牧場経営、植木職人、自衛官、NPO、NGO、国際機関、薬害被害者など、本当に多種多彩な背景と経験を持った方が集まっておられます。
    ・・・412名の民主党全員で、政治主導を実現しなければなりません。いわば、412人内閣を作り上げたいと思います。その412人による全員参加の内閣が本当の政治主導を実現する」
    と、412人の民主党の議員の職種構成をあげた、というか、あげつらった。

     が、
     そこに、国民はいなかった。
     いやしくも、一国の首相になる党首選挙の演説だ。

     米軍基地で悲痛な声をあげる沖縄県民はいなかったし、
     限界集落で苦しむ高齢者はいなかったし、
     ホームレスやフリーターや年収二〇〇万円以下の国民はいなかったし、
     サポーターという全国各地の民主党支持者と応援者も、・・・いなかった。
     ただただ自分を首相に投票する民主党議員しか、いなかった。

     市民運動に参加したての若いときの菅が聞いたら、議会主義・国会主義と激しくののしるように批判しただろう、に。
     あまりのあざとさ、薄っぺらさ、魂のないレトリック、歴史観も世界観も時代観も知性もない近視眼、ポピュリズム発想とセンス、
     とにかく自らを首相に推す票が来ればよい、という相手をまるで愚民視したような、低次元の演説だった。

     気だるい。
     猛暑の夏が終わり、夜・明け方は寒いくらいで、身体が季節の変化においついていないからか。
     消耗な、限りなく消耗な、ブルーな選挙演説の精なのか。

    前原大臣は 即刻 溝畑観光庁長官を更迭すべきだ !(2)

    • 2010.09.09 Thursday
    • 00:12


     ・・・前記事
     「前原大臣は 即刻 溝畑観光庁長官を更迭すべきだ !(1)」
    から続く( 2)です。
    ------------------------------------------------------------------

     ・・・しかし、今ここで問われるべきは「法的責任」や「道義的責任」のほかに、
     もう一つ
    ある。

     溝畑宏前社長の「経営能力」である。
     社長に経営能力がなければ会社が傾く。
     会社が傾けば、その責任の所在は間違いなく社長にある。
     よって「経営能力」もまた極めて大きな「責任問題」なのであって、それを問わない限り、大分トリニータが瀕死になったことの総括にはならない。

     同時に(これをこそ指摘したいのだが)、
     大分トリニータの経営悪化によって引責辞任した溝畑前社長を、何ら瑕疵のない前任者を更迭してまで国の観光庁長官に「天上がり」させた前原大臣の人事の合理性、正当性が証明され得ない。
     もちろん、本調査では溝畑前社長の経営能力の有無を対象としているわけではないから、ここで第三者委員会を責めるものではない。
     しかし、上記「正しい経営判断だったか、間違っていたか」は、「経営能力」に直結する事柄である。
     であるにも関わらず、第三者委員会が前述のようなアプローチで、「法的責任」を検証したことに違和感を覚えるのである。

     法的責任の有無だけを検証するなら「状況からして仕方が無い」などという情実的な分析は不要。
     経営行動としての法的瑕疵だけをみればよいのである。
     この点については、第三者委員会の視点の曖昧さは責められて然るべきと思う。

     さて、溝畑宏前社長の「経営能力」はどうなのか。


    続きを読む >>

    前原大臣は 即刻 溝畑観光庁長官を更迭すべきだ !(1)

    • 2010.09.07 Tuesday
    • 00:52
    JUGEMテーマ:観光まちづくり




     溝畑宏観光庁長官の大分トリニータ社長時代の経営責任に対する調査結果が、再三の遅れの末、、8月31日(火)ようやく公表された。

     折しも民主党代表選がマスコミを賑わせている真っ最中、まさにドサクサまぎれの公表で、つくづくに大分県の姑息さに腹立たしさを覚えるが、そのことはさておく。

     報告内容については、大分トリニータの公式HPに、公表の翌日、9月1日17:19にアップされている。
     http://www.oita-trinita.co.jp/information.php?_mode=detail&id=4954

    以下に、要点を示す。


    続きを読む >>

    小樽のお盆の、8/14-15の両日、小樽・堺町通りは! 第一回小樽堺町ゆかた提灯祭り2010

    • 2010.08.01 Sunday
    • 00:01
    JUGEMテーマ:観光まちづくり

    堺町夏祭り2010_表_519

     今年の堺町・夏祭りは、堺町通りを全面通行止めにしての昨年以上のイベントになる。

     そんな堺町通りが、小樽観光の拠点エリアになって以来初めての一大イベント準備のために、毎週月曜日と金曜日、堺町通り160軒もあるお店のなかで、若い店長やスタッフさんが三々五々集まってくる。
     30人ほどが集まる。
     今春まで10人集まれば出席者が多いと喜んでいた「堺町通り賑わいづくり」会議だったが、今や30人が集まり会議する。
     そのせいで、雰囲気は一辺に変わってきている。

     きっかけは、
     小樽観光20年で、
     初めて「堺町通り」を
     妙見川下からメルヘン交差点まで交通止めにし、
     堺町通り自身を、イベント会場とする

    という案を今春打ち出したことだった。
     それが決定的だった。

     一昨年、2008年夏、リーマンショック前から元気を失ってきていた、小樽観光のゲートウェイ・堺町通りを元気づけるために、堺町が一つになって「堺町通り賑わいづくり」協議会を作り、ゆくゆくは市内最大の160施設が集まる商店街形成まで行こう、そして、これまでは外から来る観光のお客様を商売相手にしてきたが、一番大事な「小樽市民」にこそ来て頂く「通り」に、夜も賑わう通りにしよう、というタクラミがスタートした。
     そうして作られたのが、
     「堺町通り賑わいづくり協議会」
    だ。
     企んだのは、小樽市長が委嘱した観光基本計画の実施プラン策定を検討する
     「小樽市観光プロジェクト推進会議」
    の面々、これからの小樽観光を担う四〇〜五〇代の民間委員達だった。

     どう、そのきっかけをつくるかと論議を重ねてきた。
     堺町通りで本気で仕掛けるなら、堺町の各施設の店長さんクラスに集まってもらっても決定権を預かっていなければ話は進まない、と論議は空中戦を重ねていた。
     
     そんなときの秋、我が国の初代観光庁長官に小樽出身の本保・国交省総合政策審議官が就任された。
     小樽市観光プロジェクト推進会議はこの機会を逃がしてはならないと行動に出た。 
     そもそも、本保長官は控え目で、派手なことはとことん遠慮する方だった。
     東京での数千人の観光庁設立記念パーティで、長官の耳元に、
     「小樽のほんの身内で、お祝い会をしたい。」
    と頼み込み、
     「近々札幌に仕事で行かねばならないが、一日の仕事が終わってからなら、但し身内だけなら・・・」
    と。
     帰樽するやいなや、ほんの身内だけの(^^)観光庁長官就任を祝う会を、堺町通りの北一硝子・ランプホールでと決め、開催準備に入った。
     堺町でやるなら、地先の観光施設の本社経営陣にもご案内しようという運びをし、ほんの身内だけの本保長官就任祝いパーティは、小樽らしい石造倉庫の大空間で開催された。
     その翌日、市長応接室には堺町のビッグ6施設と市長・小樽商工会議所会頭・小樽観光協会長が、堺町を元気づけるために堺町が一つになって「堺町通り賑わいづくり」協議会を作り、ゆくゆくは商店街形成まで行きましょう、という会議が持たれ堺町通り賑わいづくり協議会が誕生した。
     その中で、「ゆくゆくは堺町通りの路上も会場にするような、交通ストップしてやるような賑やかな通りにしたいですね」と小樽を拠点にというスウィーツ会社の専務さんがいい提案をしてくれて。
     まだ、いきなりは無理だが、そのアイディアを懐にしまったものだった。

     それから1年、堺町通り賑わいづくり協議会は、イベントを仕掛け続けた。
     2009.02.06 小樽雪あかりの路・堺町通りナイトマーケット 80社参加
     2009.07.19 小樽潮祭直前・堺町夏祭」 70社参加
     2009.12.19 小樽堺町通り・冬の食べ歩きラリー 40社参加
     2010.02.13 小樽雪あかりの路・堺町通りセント・バレンタイン・イブ
    と、突っ走ってきた。
     一年間の上記のイベント開催で、堺町通りの書く施設は、地元市民に来場頂く喜びを肌身に知った。
     そして今春の反省会で、
     ・もう一つのイベントを開催し終わって、次のイベントを考え実施するスタイルから、年間通してメリハリをつけ、じっくり準備期間を設けて、着実に実施していかなきゃダメだ、という声が堺町の地先の皆さんから出て来た。
     更には、
     ・食べ歩きラリーは飲食店やスィーツの参加で小樽市民の来場は得られても、観光物販店の参加は心情参加の域を出ていない。 なんとか物販店にもやって良かったという実感を得られる、オール堺町のイベントとして取り組みをしないとダメだ、という声が地先の皆さんから出てくるようになった。
     やっと、「堺町通り賑わいづくり協議会」立ち上げ時の会議で出た、「堺町通り交通全面ストップして路上も会場に」というスウィーツ会社専務さんのアイディアを実践するときが、きた。
     あしかけ2年、自分たちで自分たちの地域の企画をする、そういう体質に徐々に「堺町通り賑わいづくり協議会」は成長してきていた。
     堺町通りを全面通行止めにして、道路そのものをイベント会場とし、将来は小樽大物産展を開催出来るようなイベントに発展させてしていこう、という案がアイディアから企画案になっていった。

     全国で廃れてしまった歩行者天国・ホコ天の再現ならだめだ。
     が、堺町の各施設の前の道路も会場にした、飲食やスウィーツだけではなく、オール堺町の皆さんがやって良かったと終わって言えるような、小樽物産祭りに成長させていくイベントに挑戦するならと、北一ガラスを始め堺町の主要施設が賛成し、ゴーサインを出してくれた。

     そして、この二年間を助走路として、ついに今年の堺町夏祭りは装いも新たに、
     第一回小樽堺町ゆかた提灯祭り2010
    として、
     参加施設数 111 店
    で開催される。
     過去2年で最高の参加だ。
     それが、↓ 以下の参加店マップとなった。
     
    堺町夏祭り2010_表_519

     企画内容も過去2年の経験から充実してきた。

     ・開催期間 お盆8月14(土),15(日)の二日間・雨天決行
     ・会場   堺町大通り(妙見川川下からメルヘン交差点までの約500メートルの路上
           (二日間、am11:00〜pm21:00まで交通止め)
     
     ・プログラム
      ・浴衣でご来場の方には、買い物特典用意
      ・浴衣コンテスト開催_東京ディズニーランドか沖縄旅行、どちらもペア1組)
      ・ぷらっと小樽スタンプラリー:市内8箇所を回って商品ゲット。抽選で3万円旅行券他
      ・メルヘン交差点会場:14日
       メルヘンコンサート
       ルタオ・オリジナルロールケーキ早食い協奏
       メルヘンライブ・オールディズナイト
      ・メルヘン交差点会場:15日
        15:00メルヘン感幸ライブ
        18:00サブライズ・ライブ
        14-15両日のビアホール
      ・クラシックカー展示 堺町大通り路上 8/14 pm18:00まで
      ・オイコラ会場
        ・浴衣コンテスト
        ・食甚製作体験工房・
      ・中央バス、堺町ー天狗山割引バス運行、天狗山から大天狗さんが降臨
    と、
     自らの堺町エリアだけではなく、市内へのお客様の周遊、
    そして、
     天狗山観光との連携
    も目指す、いぶし銀の内容となっている。
     文字通り、「小樽市観光プロジェクト推進会議」が推し進めている
    時間消費型・小樽市内周遊型観光
    の実践だ。

     ここまでやってきた。
     小樽堺町ゆかた提灯祭の実行委の委員長の苦労は大変だった。
     が、ここまで先頭になって堺町通りを駆け回って。やって頂いた。

     かつて、堺町で賑わいづくり事業をやってもいいが、
      「その地元主体がいなけりゃ、やる意味ない
    と溜息をつく人達も2年前にはいた。
     なんで、客引き通りにそんなに入れ込むのか、
     所詮、観光客にしか目が行かない店ばかりではないか、
     それなら、既存の商店街に力を注いだ方がいいではないか
    と、仲間も行政の幹部も嘯いてもくれた。
     そして、私や仲間も堺町通りを「安物低俗土産観光通り」と言ってきた。

     が、小樽観光のゲートウェイである堺町の帰趨は、小樽観光そのものの帰趨なのだという現実から出発することが、彼らと私達の決定的相違だった。

     なにかしら違いを設定し、そこから距離をおくことでは、何も生まれない。
     その典型が、堺町160施設の大半が市外から進出してきた事業者だ、というのが2年前の行政も観光マターも堺町の地先の人達の共通の把握だった。
     しかし、実際自ら脚で回って調べてのものではなく、感覚で言っていただけだった。
     そして私達は自分の脚で回った。
     結果は、160施設の内90%が市内事業者だった。
     現場に入らないで、あれこれ手前勝手な評価をしていただけだった。

     そのような人々と私達の違いは、外からの批判を20年やってきてダメなら、堺町の現場に入って一緒に汗をかき仲間となって真っ向からそういう論議をしたい、という思いの有無だった。

     堺町通りの中には、観光20年の堺町の移り変わりを見てきてた結果、シニカルに構え、何をやっても意味ない通り、と自虐的な態度をとられる方々も少なくない。
     が、得てしてそういう姿勢を取られる方に限って、自ら当の堺町で汗をかいてきた方々では、残念ながら・・・ない。
     
     過去のことをジジ臭くあげつらって何が意味あるのか?
     かの有名な亀山社中は、血と汗を流してでも日本初の会社組織を作り蠢いたからこそ、歴史的意味がある。
     別に他のエリアのことではなく、自分の商売の寄って立つ基盤のある地先のことなのだ。
     汗をかかないで評論家ぶるだけでは変わるわけはない。

     今これから堺町通りをどうするのか、という夢を語り実践する仲間になって頂きたいものだ。

     堺町が変わること・・・、それは小樽観光が変わる、永続的小樽観光革命なのである。

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    大分県は「なんていいかげんな県」と言われていいのだろうか?

    • 2010.07.26 Monday
    • 00:03
    JUGEMテーマ:観光まちづくり

    大分県庁 ったく!
     大分県というのは、ナンテいいかげんな県なんだ !!!
    と、やっぱり言わねばならない。

     本年2月、大分トリニータ青野社長が、観光庁長官・溝畑宏氏の、大分トリニータ社長時代の経営責任を調査し、株主総会後に明らかにすると公言したのにも関わらず、4月になっても5月になっても6月になっても、今や既に7月の下旬になっても公表しない。
     やきもきしていたら、今度は8月になると・・・怒髪天 !!
     
     そんなに大分県は、溝畑氏を庇いたいのか、庇いたい理由が、何かあるのか?!

     昨年、大分トリニータは経営破綻状態に陥り、溝畑宏前社長(現・観光庁長官)は引責辞任した。
     大分トリニータは莫大な負債を抱え、J2に降格、県や地元金融機関、Jリーグ等の支援を受けながら今も依然として瀕死の状態にある。
     しかし溝畑氏は引責どころか、この辞任劇のさなか、同じ京都生まれの旧知の中である前原国交大臣と密通し、観光庁長官のポストにいきなり「天上がり」する大出世劇を演じていた。
     この厚顔無恥に、大分県民や関係者は呆れ果て激怒した。
     大分トリニータが経営破綻状態に陥ったのは、溝畑前社長のムチャクチャな経営によるものだと、県民なら誰しも知っていたからだ。



     その県民の声に押され、本年2月17日、
     大分県議会総務企画委員会・(大友一夫委員長、麻生栄作副委員長/当時)
    に参考人として出席した大分トリニータ青野浩志社長(溝畑前社長の後任として大分県庁より出向)は、
     10億円超の債務超過
    が生じた溝畑前社長の経営責任について、外部専門家による調査を行うと明言した。
     この発言を確かめるべく大分県議会の「会議録検索システム」にアクセスしたが、これは
     「議会本会議会議録」
    のみであり、総務企画委員会については検索できない。
     つまりWebでの閲覧不可で、これは実質情報非公開に等しい。
     こんな時代遅れの議会があったのかと、これ又ついでに怒髪天 !、
     大分県に失望。
    続きを読む >>

    角界改革・・・??

    • 2010.07.24 Saturday
    • 05:48
    相撲番付519

     お客様から平成22年7月場所・名古屋場所の番付をお土産に頂き、お店に飾った。
     大相撲番付、最高のインテリアである。
     色々騒がれた大相撲・名古屋場所は白鵬が大鵬に並ぶ四五連勝をマークしたが、TVでは残念ながら・・・

     番付をみながら・・・思う。
     しかし日本人てぇのは、その集団ヒステリック症状相変わらずと。
     大相撲賭博問題も、今さらながら大騒ぎするするのはナンダかなぁ〜、と辟易している。
     そんな騒ぐほど、心身ともに健全な生活を皆さんされておられるのか、と。(^^)
     
     日本相撲協会特別調査委員会が、
     「相撲力士は狭い社会で育ち、外を知らん、ここを改革せい
    と宣ってきた。
     その矢先、特別調査委に委員を出している「日本プロスポーツ協会」が、夏場「維持員席」整理券を暴力団組長に流していたのが発覚した。
     特別調査委員の日本プロスポーツ協会副会長は辞任する羽目になった。
     日本プロスポーツ協会そのものが大相撲「維持員席」整理券の流布経路・温床であったということは、その協会傘下のプロスポーツ団体はどうなっているのか?

     「狭い社会・外を知らない」などという指摘は、実は何も本質的なことを語っていない。
     若い10代から部屋制度の中に放り投げられて、ただ番付を1枚1枚登って行くことに全てをかける、そもそも狭くて閉ざされた世界だから成り立つ世界で、世間など知らないのは、当然の「ゴッツアンデス」世界だ。
     そんなことを言って何か指摘したと、言った本人が勘違いされているのではないか。
     
     特別調査委員や独立委員会委員は、大変なのだろう。
     が・・・、角界の改革などそう拙速にできるものなのか?

     民主党とダブル。
     マニフェストに縛られて、即効性に引きずられ、にっちもさっちもいかなくなっている姿が、そこにダブってみえる。 
     国民は、拙速な対処など求めていない。
     任期4年でどうできるのか、1年目、2年目・・・と行程を明らかにし、それをどう実行しどれだけ達成したかを見守ろうとする。
     そのプロセスでの説明責任を求めているのに、政権を取ってナンデもやれると錯覚し舞い上がった。
     そもそも政権担当能力など未知数でやらせてみるか、と思っただけなのに。

     誠司・・じゃない、政治も角界も、どう立て直し、どう文化の香りを残し、どう時代にあわせるかの「本腰」をいれることこそが、求められている。

     古い時代から生きてきた伝統文化には、複雑怪奇・魑魅魍魎ともいえる勢力の絡み合いが当然あって、それを「負の遺産」という要素をもってあげつらうだけでは、何も語ったことにはならない。
     ましてや「負の遺産」だけを取り上げ、それだけをワンタッチで取り外して捨てればいいでは、根本解決にならない。
     かつてバブルの時代、リゾート開発をどの省庁も後押しし、困窮する地域はそれを押しつけられて地域は対立しながら「悪魔の選択」に走った。 結果は暴力団顔負けのツケ馬つきの一層の負債を抱えてしまう羽目になったのは、記憶に新しい。
     そして、そのツケ馬つきの負債を二束三文で買い抜ける再建屋を跋扈させるというアフタフォローつきだから恐れいいる。
     
     角界改革の「独立委員会」のメンバーの早大元学長が、「大学の管理強化や学生運動セクトを追放した実績」だけで選ばれたらしいが、大学と角界の世界を同じにみたら火傷するだろう。

     かつて、小樽運河保存運動時に私達は今のフリーマーケットの走りといえる素人出店を「テキ屋」ばりに仕切って、小樽運河を450軒以上の出店に二日間で30万人以上のお客様を招き入れ、運河を人垣で包み込んだものだった。
     全て若者が準備するイベント・ポートフェスティバルと銘打ったものだった。
     警察が祭りから「暴力団排除」を狙って協力をしてくれ、お祭りに必須の「テキ屋」を排除し、素人のみの出店の場所割りも警察の柔道場でやったものだった。
     その説明会に本物の「テキ屋」が素人を装い紛れ込んでいたらしく、夜、テキ屋組合の親分が子分を沢山連れて弊店に現れ、お客様は逃げだしスタッフはびびり商売にならないので、改めてテキ屋組合の親分のお宅にお邪魔するということで引き取ってもらった。
     母と連れ合いは、まるで殺人鬼の中に私が行こうとするかのように騒ぎ立てた。
     翌日、実行委は「テキ屋」=「暴力団」=「恐怖」で紛糾し、結局一番年かさのYと私二人で親分宅にお邪魔した。
     黒いスーツの若衆達に回りを囲まれて座り(^^)、親分と対座した。
     日本テキ屋道の歴史から数時間も話をしたが、結局は、
     「おまえらの小樽運河の祭りわな、俺らの世界では『大旗』というランクでな、
      北海道では北海道神宮例大祭とお前らの祭りだけが『大旗』クラスだ、後は
      皆中旗・小旗のランクだ。
      そこに小樽のお祭りを仕切る俺らがいないとなったらメンツがたたねぇんだ。
      どうしてくれる。
      テキ屋参加も認めろ。」
    という話だった。
     利害とメンツだった。
     450軒もの出店申請がある祭りで、テキ屋が素人の振りして来ればいくらチェックをしても無理で、イベントがオープンしたら「テキ屋」だったとわかると今度は実行委や一般出店者が大騒ぎとなり混乱もする。
     出店出店者リストを警察に見せチェックを受けるなど、とんでもないことだった。
     で、一ヶ月間、親分のお宅に通い続け、
     「親分のメンツもわかる。
      だったら明らかにテキ屋とわからない容姿になるのを約束して貰いたい。
      出店の列の角々だけ場所を実行委がキープする。
      他の町のテキ屋組合の親分衆が様子見にきても小樽では親分が仕切っているという風
      になる。」
    と・・・、それで手打ちした。
     Yと私には「テキ屋も人間だ」という思いが底流に流れていた。
     親分の横に座る子供時代から顔見知りの若頭風の子分もホッした表情を浮かべて。
     あとで、○暴担当刑事に、Yと私はしこたま叱られたが・・・。
     しかし問題はそれからだった。
     それ以降、警察は小樽の様々な祭りにこの小樽運河保存のお祭り・ポートフェスティバルの出店モデルを導入し、「住民主体」という美辞麗句でありとあらゆるお祭りからテキ屋を排除していった。
     その結果、どのお祭りも素人の「くじ引き」出店だらけの気合いのない縁日となってしまい、結果、祭り自身の勢いを失っていき、どの祭りも廃れていった。
     そもそも、危なく妖しく面妖な空気・雰囲気が祭りの縁日にとって重要な要素だったのに、それを排除して祭り自体の濃さを薄めて見かけだけの健全さを追ってしまい、祭りそのものを重態患者にしてしまったのだった。

     今の相撲協会の改革論議が、それにダブル。

     独特の部屋制度があり、師弟制度があり、番付取組の編成もあり、興行という世界があって成り立ってきた。
     それを弄れば弄るほど、現在の大相撲とは全く別個の、文化と伝統の香りもない、清潔感だらけの味も素っ気もないものになっていく・・・のは必然だ。
     国際化という大儀の中でポイント制になってしまった柔道がその先例だ。
     
     勿論、暴力団が巣くい賭博の温床になることを許すなど言外だし、部屋で死傷事件が起こるのも論外だ。
     兎に角、部屋持ち親方に金さえあればすぐ部屋株を買えてそれで大相撲理事会メンバー候補になれるシステムが問題だ。
     現役時代の活躍とスポットライトの照射度だけで親方になれるのが問題であって、弟子の育成や理事会運営などという能力は、引退までに備わるわけではない。
     賭博に手を出した力士達より、親方が問題なのであり、そこをどう克服するかしか、今の大相撲の生き延びる展望はない。

     賭博賭博というが、世間ではパチンコや競艇・競馬が許され、裏では関係省庁に権益を牛耳られている。
     それをみてTOTOやロトが作られ、暴力団も顔負けのアガリと利権と天下り装置に群がったのはどこか?
     他方で、違法カジノがあり、違法野球賭博があり続けた。
     世間でも、ゴルフや麻雀、トランプでウマがあり続ける。
     浜の真砂は尽きるとも・・・
     なのに、皆、善人面だけするヒステリック症状は・・・ゴメン被りたい。

    20100723 本物の「硝子の街・小樽」になるために、第二回小樽がらす市

    • 2010.07.23 Friday
    • 00:00
    JUGEMテーマ:観光まちづくり
    2010第二回小樽がらす市表519
     小樽では、明日から第四四回おたる潮祭りが三日間に渡って開催されます。
     この期間のもう一つの目玉のイベントが、
     「第二回小樽がらす市」
    です。
     小樽はこの二〇年の観光小樽で、ガラス・寿司・オルゴールの三点セットで奔ってきました。 
     が、本当に小樽市民が私達の『まち』は硝子の街だと自ら誇るような『まち』になったのか、という自らの問いに応えようとしたのこの「小樽がらす市」なのです。
     今から三〇年前、地場の小さなガラス販売店の店主が試みた「ランプ」販売がヒットし、それからの努力で「北一ガラス」は全国に名をとどろかせるまでになり、グラススタジオインオタル工房の誕生から今では市内に24のガラス工房がその腕を競うようになり、小樽運河・堺町にはガラス販売観光施設が軒を並べるようになりました。

     しかし、お土産品としてのガラス販売は全国の観光地のモデルパターンとなり、今や珍しいものではなくなってしまいました。
     観光二〇年のわが小樽もそうです。
     更なる「硝子の街」に、本物の「硝子の街」になるためには、市民や札幌圏の人々がそう認めないと発展はありません。
     そのために、瀬戸物の『まち』、陶器の『まち』が瀬戸物市を永年開催してきたように、小樽市民にもっともっと硝子に触れてもらい、日常生活で硝子が何の衒いもなく使われ楽しんで貰う、そういう『まち』になっていきたい、という願いで昨年からスタートしました。
     合い言葉は、「本物の硝子の街」!

     是非、ご来場下さい。

    2010第二回小樽がらす市裏519

    2010第二回小樽がらす市参加リスト519
     ↑ 小樽がらす市参加工房リスト! クリックすると拡大します。

    【茨木家中出張番屋!その5】:番外編・番屋写真集!

    • 2010.07.22 Thursday
    • 13:20

    JUGEMテーマ:観光まちづくり

     
      gallery_top_470

     茨木家中出張番屋修復顛末記を書き連ねているが、どうもリアル感が足りない。
     で、祝津ニシン番屋再生物語ブログが再生なった茨木家中出張番屋の写真集をアップしてくれた。
     修復前と修復後の建築写真専門のカメラマンの画像だ。
     まだ、一般公開する管理運営体制ができていないので、それが軌道に乗るまで写真集で我慢をしていただきたい。

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